映画鑑賞記録2018

2018年も半分が終わったのに、まだ3本しか映画を観ていない。しかもそのラインナップが、文豪ストレイドッグス名探偵コナンピーターラビットというなかなかにアレな布陣。

まぁ、もうすぐ「万引き家族」が公開されるからそれは観に行きたいし、あと「恋は雨上がりのように」も観に行かねば。

その2つを観てからでも良かったのだが、マァ、忘れてしまいそうなので、現時点で観た3本について記録をつけておく。

※ネタバレがあります。映画のタイトルなどで引っかかったなどで、当ブログにお越しくださった方もいらっしゃるかもしれませんが、観ていない場合はご注意を。

 

文豪ストレイドッグス DEAD APPLE:2018年最初に観た映画。まず文豪ストレイドッグスファンとしては、なかなかに素晴らしい内容で2回観てしまった。

文豪の名を冠したキャラクターたちが、各々、その文豪の代表作の名をつけられた「異能力」(太宰治であれば「人間失格」という能力を使う)を駆使し、熱いバトルを繰り広げる「文豪ストレイドッグス」。今回が初の劇場版というわけだが、とても面白かった。

特に芥川が己の異能と戦うシーンが好きだったりする。すっごい中二くさくて、最高に良い。強い奴と戦いたいと思っていたが、こんなに近くにいたとはな(自分の異能のこと)みたいなことを言っていて、最高に良い。渋澤が「自分の異能に勝てる者なんていません」的なことを豪語するのだが、そのセリフが出た直後に芥川は自分の異能に勝利する。そのあと、敦、鏡花も自分の異能力に勝利、中也にいたっては自分の異能と戦うシーンもなく、あっさりと異能を取り戻している。良いのか、それで、と思わないでもないが。ま、良いでしょ。

本作で面白いのが、中島敦のスタンスの変化かもしれない。

「渋澤を殺さなくても良い。太宰さんが戻ってくれば、なんとかしてくれる」

という、10代の少年らしいといえば少年らしい。この中島敦というキャラクターは、かなり「子ども」らしく描かれている存在だと思う(作者の方々がどれくらいの意図をもってされていることなのか、分からないのだが)。彼は、少なくとも本作の途中まではかなり「子ども」らしく描かれている。

例えば、渋澤の排除を求められたあとの彼は、よーし、ぶっ殺すぞ、と意気揚々とはしておらず。どこか、及び腰なところがある。

「渋澤を殺さなくたって良い。太宰が帰ってきてくれれば、なんとかしてくれる」

というのが彼の当初の考えだった。これって、すごく子供らしい、と思う。と同時に、敦と太宰の関係が如実に現れている。10代である敦にとって、太宰は絶対的な「大人」なのだ。太宰は「絶対に自分の味方」だし「どんな窮地をも絶対に救ってくれる」存在。それは恐らく、シリーズを通して確実に変わらないものだろう。

また、芥川に対する態度もまた「子ども」らしい。芥川は「問題解決にあたって、太宰を殺すことも厭わない」という考えを持つ。それに真っ向から対立する、敦は「お前とはいっしょに行けない」と拒絶する。これもまた、「自分とちょっとでも相いれない相手とは、行動したくない」「利害ではなく好き嫌いで行動を決める」すごく、子供っぽい態度だと思う。それに対し、鏡花は利害関係を重視して、芥川と行動を共にする。対照的だ。

で、この中島敦の変化について。……書けたら良かったのだが、あまり固まっていない。ううん、これ、どう説明すればいいんだろう。いや、少年が生きるために力を振り絞ったのは分かる。分かるのだが、うう。難しい。

どちらかといえば、戦闘シーンのかっこよさを重視した作品のようにも感じる。

もうすこし、まとまったら、追記したい。

 

名探偵コナン 0の執行人:今年1番モヤモヤした作品、というと、怒られてしまうだろうか。しかし、実際モヤモヤしたのだから、仕方がない。まず第一に、あまりにも「公安」を美化しすぎているように感じる。一応、降谷が「公安がやった違法捜査は公安がツケを払う」的なことは言っていたし、それなりに動いていたとは思うが。いや、ダメだろう。特に今の日本で、国家権力を美化するのはあまりにも危険だ。

公安が違法な手段に出ておきながら、降谷にはこれといった罰はない。それどころか、彼は後半などは完全に正義として描かれているように感じた。それはひとえに彼が本作の主要キャラクターであり、人気キャラクターだからではないか、と思う。だから、彼が違法な手段に出ても「仕方がないよね」という理由づけをして、いかにも良い話で終わらせようとする。「公安、かっこいい!」と印象付ける。

結果的に、国家権力のまずい描き方事例として終わった気がする。

 

ピーターラビット:面白かった。最高に面白かった。マグレガー翁が早々に殺されてしまい、その後、特にこれといってフォローもなかったのがしんどかったが、まぁ、ピーター側とマグレガー青年の両方、かなり厚みを持たせて描いているので、これ以上、他の人物についても膨らませろ、というのは酷か。

しかし、マグレガー翁は気の毒だ。畑はウサギに荒らされ(しかも、明らかに「スリリングだから」という理由でやられている)、奥さんには(恐らく)先立たれ、最終的には心臓の発作で逝去。相続権を持つ親戚(マグレガー青年)には「知らない」と言われる始末。最後の最後まで、嫌な奴で終わっている。もう少し、救いが欲しかった気もする。

あと、もう1つ、不満があるとすれば、アレルギーをあんな風に安直に攻撃手段には選んでほしくなかった。アレルギーは一歩間違えば死ぬもので、シャレにならない。シャレにならない割に、結構実行しやすい手段なので、描く際には気をつけるべきではないのか。

さて、しかし、ピーターには前2作にはない点がある。

主人公が大切なものを失い、反省を促されるという点だ。

ピーターたちはマグレガー青年の排除に躍起になるあまり、勢い余ってなんと自分たちの住処を爆破してしまう。そして、その勢いで大好きな女性の家をも潰してしまう。

女性は怒り狂い、ウサギが爆弾のスイッチを押せるとは思っていないので当然、(消去法で)マグレガー青年の仕業だと思う。まあ、半分はそうだが。爆弾を買って、ピーターたちの家に突っ込んだのは彼だし。そして、マグレガー青年に怒り、ピーターたちに謝罪する。私があんな男を好きになったばっかりに、と。

展開としては、ピーターが待ち望んでいたものだ。すなわち、それまで自分たちに注がれていた愛情を横取りした男を排除し、女性の愛情を取り戻す、という。

しかし、ピーターの顔色は優れない。それはそうだろう。彼女の家を潰したのは、ほかならぬ自分なのだから。自分がスイッチを押してしまったからこそ、彼女の家は潰れてしまったのだから。

彼は落ちこみ、反省する。

そして、ロンドンへと飛び出し、マグレガー青年のあとを追うのだ。マグレガー青年に謝罪し、彼らは大慌てで女性の元へ向かう。そして、真実を彼女に知らせ、最後はめでたしめでたし。

主人公であるピーターラビットに、一度すべてを失わせる、というのがこの映画のおおきなところだろう。

それまで、ピーターたちはマグレガー青年を「絶対的悪」と想定し、戦って来た。自分たちが勝てば、自動的に幸福は訪れると信じて。マグレガー翁がいなくなった直後のように、自由を謳歌し、愛情を受け続けられると信じて。

ところがどうだ。

実際にはマグレガー青年の排除は成功したが、それ以上に大きなものを喪失してしまった。家はなくなり、愛情を注いでくれていた人も去ろうとしている。

そこで彼らは自分たちの過失を認め、マグレガー青年に謝罪する。「絶対的悪」の存在だった青年が、味方となる。文章で書くとやや陳腐だが、本作ではその流れが見事に描かれているので、ぜひ、映画館で観ていただきたい。

「主人公=正義」という描き方をしなかったというだけで、本作は私の中で高評価だ。「主人公=正義」をしない、というのは案外難しいことだろうから。

 

もうちょっと書きたかったが、眠たいのでここらへんで。「主人公=正義」の危うさなどについても、気が向いたら書いていこうと思う。