過去も未来も

誰が言い出したのかはわからないけど、誰でも知っている、誰もが口にしていそうな、どこにでも溢れている陳腐な文言の一つに、

「自分の人生はどこで間違ってしまったのだろう」

みたいなのがある気がする。要は、自分の人生は昔は楽しかったはずなのに、いつごろからこんなにつまらないものになってしまったのか、ということだ。

私もふと、そんなことを考え、そして気づいた。

私の人生は、物心ついたころには既につまらなかった。

幼稚園の頃から、運動は苦手で遊びではいつも足手まとい。頭の回転も遅いものだから、ほかの園児のやっていること、いっていることも理解できず、余計にバカにされる。私が運動場に出て行っては、邪魔になると遠慮して室内にいると、今度は先生に外に出るよう促される。居場所がなかった。

それは、家に帰ってからも、似たようなものだ。左利きだった私は、それだけで怒られた。左手を使うな、見苦しい、右手で字をかけ、箸を持て。ひらがなの特訓もした。怒られたことだけは、よく覚えている。縄跳びの特訓も、鉄棒の特訓も、なにもかも上手くいかなかった。

そのころはまだ、明確に死にたいとか、消えたいとか、あるいは周囲に対する憎しみとか諦めのようなものはなかった、と思う。ただ、なんとなく怖いとか、しんどい、という気持ちはあった。……そうだ、あの頃はまだ「怖い」が一番大きかった。

同い年の子どもも、先生も親も、皆怖かった。

グズな私は、小学生になってもグズだった。

友だちができなくて、母に怒られた。運動が出来なくて、疎まれた。性格が暗くて、影が薄くて、いてもいなくても同じだった。バカだったから、よく忘れ物やなくしものをし、母に怒られた。机の上が汚い、ランドセルの中が汚い、と夜、布団の中に入ったあと、叩き起こされることもあった。(眠るのだから、当然のことだが)、目をつむっていると「狸寝入り、してんじゃねえ」と蹴り起こされた。この頃も、やっぱり怖かった。

周囲への感情が「憎しみ」になったのは、中学生の頃からだろう。バカにされた。学校でも塾でも。自殺した方が良いんじゃないかとも思ったが、自殺をしてしまえば、私をバカにしていた人間は余計に喜ぶだろうと思ったら、死んでも死にきれず、憎しみを糧に生きているようなものだった。いや、はやみね作品を読む、などの楽しみもあったといえばあったが、対人関係に関しては、「憎しみ」がメインだった。

腹が立つ。しんどいので、細かくは書かない。

結局、自分の人生ってはいつくばって、バカにされてばかりなのだ。大切になんて、されないんだ。

幼い子供が、大人にちやほやされているのを見ると、どうにも嫌な気持ちになる。どうして、あの子は、と思ってしまう。大人げないのは判っているが、「どうして」と言っているのは大人の私じゃなくて、私の中で消えきれずにいる、幼い頃の自分なんだと思う。

幼い自分は、もっと周りに優しくしてもらいたいと願っているけど、現実の私はもう大人なので、誰も優しくしてくれない。

諦めなくちゃならない。

誰にも期待しちゃいけない。

ゲームでもしよう。ゲームは良い。「私(プレイヤー/主人公)」に、大勢のキャラが優しい言葉をかけてくれるから。

クリスマスイベで忙しい。

クリスマスもなにも関係なく寂しい私には、ありがたいことだ。