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紅の部屋

紅の部屋

 

   1

 彼の右側頭部から流れる血は、赤かった。赤、朱、紅。どれを使うのが良いだろう。彼の血液の上に夕陽が覆いかぶさって、世界はいよいよ赤かった。

「僕が殺したんだ」

 やっと声変わりを迎えた幼い声に振り向くと、少年が私の目を見据えていた。むろん、嘘だと私は思った。そんなこと、あるものかと。

「僕が、殺したんだ」

 少年は言葉を区切りながら、繰り返した。

 なにもいうことができず、私は死人の方を今一度、振り返った。死体ごしに見る窓の外は、夕暮れどきで赤い海の底に沈んだかのようだった――。

 

   2

 まるで、赤い海の底にいるかのようだった。

 まったく気づかなかった。まだ昼過ぎだと思っていたのに、いつの間にか午後五時を回っている。九月にもなると、日が短くなる。窓の外はもう、夕暮れどき。

 正面に座っている彼を見ると、瞼を閉じソファに身を沈めていた。膝には読みかけの本――ル=グウィンの『影との戦い』――が開いたままになっている。読んでいる最中に、眠ってしまったらしい。身体が小さく、静かに上下している。

 立ち上がって近寄ると、長い睫毛が眼もとに影を落としているのが見えた。掛け値なしにきれいだと思った。睫毛だけでなく、黒い髪も眉も首筋も。今年で五十八になるという彼の外見は、いわれてみれば確かに還暦近い男性のそれだったけれど、たとえいくつであっても、男性でも女性でも、僕はきっと彼のことを好きになっていただろう。

清凉寺さん」

 声をかけると、彼はゆっくりと目を開けた。

「寝てた……?」

「はい」

 僕が頷くと、清凉寺さんは恥ずかしそうに少し笑った。

 僕は手に持っていた本の表紙を彼に見せながら、

「あの、これ、借りても良いですか?」

「うん……?」

 清凉寺さんは眠たそうに目をこすりつつ、僕の手元を覗き込んだ。身体が近くなる。微かに、洗剤の香りがした。清凉寺さんは少し、洗剤を使いすぎている気がする。

 僕が持っていたのは、大きなシルクハットの絵が描かれた文庫本。帽子の下には『ローマ帽子の謎』という文字。

「いいよ。そこにまだあるだろう、似たようなのが。そこにある本は好きに持って帰って読んでくれていいから」

 清凉寺さんはそういって、僕の背後にある本棚を指さした。清凉寺さんのいうとおり、五段ある棚のうち、二段はミステリ小説で埋まっていた。エラリー・クイーンだけでなく、コナン・ドイルチェスタトンも並んでいる。ちなみに、残り三段のうち二段はファンタジーとSF小説――ル=グウィンJ・K・ローリングレイ・ブラッドベリなど――で、一番下の段には雑誌とレコード、CD数枚が並んでいた。

「ありがとうございます」

 僕は礼をいって、鞄に本をしまった。明日、学校で読もう。今日中に読み切ってしまうのはもったいない。

「帰るかい?」

「はい。また、明日、来ます」

「今日と同じくらいの時間?」

「はい。今日と明日は研究授業があるらしくて、午前中で授業は終わるんです」

 先生たちは別の学校に授業を見学に行かなくちゃならないらしい。先生がいないと授業が出来ないから、学校は午前中で終わり。学校嫌いの僕にとっては、このうえなくありがたい。どうせなら、昼食の時間もなしにしてくれたらいいのに。

 清凉寺さんは「そうか」と納得顔になって、

「今日は早いなと思ったら、そういうことだったのか。じゃあ、お昼ごはんは?」

「え?」

「授業は午前中でおしまいなんだろう? じゃあ、お昼ごはんは食べてないのかい、今日?」

「えと、昼を食べてから、それから掃除して終わり、なんです。だから、昼は弁当、食べました」

 休日には何度か、清凉寺さんの手料理をご馳走になったこともあった。先週の日曜日につくってもらったナポリタンを思い出し、嘘を吐けばよかったと後悔する。……図々しすぎるか。

「へえ。なんだか不思議だね。午後は授業ないのなら、お昼ごはんをわざわざ学校で食べる必要、あるかなあ」

 まったく、その通りだと僕は深く頷いた。

 清凉寺さんは壁にかかった時計を見やって、

「さ、そろそろ帰った方がいい。おうちの方が、心配なさるだろうから」

 僕は素直に「はい」と頷いたけど、心に少し靄がかかった。おうちの方が心配、だって。清凉寺さんは僕を必要以上に子ども扱いしている気がしてならない。

「また、来ます」

 頭を下げて、家を出る。初めのころは「お邪魔しました」といっていたのだけど、清凉寺さんが「邪魔じゃないんだから、そんなこといわなくていいよ」といったので、やめた。その言葉が嬉しくて、今でもときどき寝る前なんかに思い出すことがある。できることなら録音しておきたかった。

 玄関の外に植えられている二本の木は、夏の頃の緑を失い、根元に葉を落とし始めていた。桜と橘だと、以前、清凉寺さんに教えてもらった。玄関を挟むようにして、隣り合わせに植えられている木を見るたび、僕は仁王門を連想する。

 洋館に仁王門は不釣り合いだろう。西洋には、仁王門のようなものはないのだろうか?

 

 僕、こと梅野紫希(しき)が彼、清凉寺右近氏の家に通うようになって、もう半年近く経つ。

 半年前。僕は高校に入ってまだ一か月だというのに、すでに、学校に通うのが嫌になっていた。

 家から電車で二駅。交通の便は悪くない。毎年、数名は現役で国公立大学に合格している中堅の進学校。中学三年生のときの担任にすすめられ、受験を決めた。

 授業は難しすぎず、易しすぎず。問題児がいるわけでもなく、皆、真面目そうな顔。良い子でいつつ、力を抜くところは抜いて、楽しい学校生活をモットーに。好きなものは友達との何気ない会話と、クラスの絆。そんなやつらばかり。

 とどのつまり、僕は友達と休み時間にだべることだとか、体育祭や文化祭で発揮しなくてはならないらしいクラスの絆とやらを、好きになれなかったのだ。高校生たちの群れに潜り込むことができなかった。ただ、それだけ。

 人の輪から外れ、部活にも委員会にも所属しなかった僕は、放課後の時間を持て余していた。学校の息苦しさからは解放されても、それだけで幸せになれるわけではないのだ。

 授業が終わってすぐ家に帰れば、母に「部活に入れば良かったのに」「内申点に響いたりしないの」などと絡まれる。それはそれで苦痛だ。

 だから僕は、放課後は駅前の図書館か学校の図書室で時間を潰してから、家に帰るようにしていた。

 では、なぜ、そんな僕が清凉寺さんの家に通うようになったかといえば、それは偶然、としか説明のしようがない。

 ゴールデンウイーク明けの放課後。学校は図書室の書架整理のために、駅前の公共図書館は定休のためにそれぞれ閉まっていて、僕は行き場をなくしてしまっていた。

 直接家に帰るのは気が進まず、散歩でもして時間を潰そうかと思い彷徨った挙句、たどり着いたのが清凉寺さんの家だった。

 今どきなかなかお目にかかれないレンガ造りの洋館、そして〈清凉寺〉という珍しい名前に興味を惹かれ、僕はその清凉寺邸の前で足を止めた。そういや、学校の近くに古い洋館があるとか、そこはお化け屋敷で亡霊が出るなんていう眉唾ものの噂話をクラスメイトが話していたな、お化け屋敷にしちゃあ、小奇麗じゃないか、などと考えていたら。

「うちになにか、ご用?」

 背後から声をかけられて振り返ると、買い物袋を手に提げた中年男性が立っていた。それが家主の清凉寺右近さんだった、というわけだ。

 きっと、彼から見れば、あのときの僕は不審者に見えたことだろう。門の前に立って表札や、庭の様子をじろじろと眺めていたわけだから、制服を着ていなかったら通報されていたかもしれない。

「綺麗な家ですね」

 気が付けば、そんなことを口走っていた。「映画に出てきそう」

 あのときは、とにかく怪しまれないようにするので精いっぱいだった。頭に血がのぼってしまって、自分が何をいったのか、詳細には覚えていない。

 でも、このときの僕は実に幸運だった。ツイていた。あとでインターネットサイトを見てみたら、その日の星座占いでは一位だったから、そのおかげかもしれない。

 突然、雨が降って来たのだ。

 最初は霧吹きで吹いたような細かい雨だったのが、瞬く間に大粒の水滴の大群へ、姿を変えた。

 僕は、咄嗟に、雨宿りをさせてくれるよう頼んだ。傘を持っていないから、と。鞄の中に折り畳みの傘が入っていたにも関わらず。

 清凉寺さんは、怪しむことなく、また嫌な顔もせず、僕を館の中へ入れてくれた。濡れてしまった身体を拭くタオルと、温かい紅茶も出してくれた。

 通り雨だったらしく、一時間ほどで空は何事もなかったかのように、セルリアンブルーへと戻り、僕は清凉寺邸を出た。そして、それをきっかけに、僕は清凉寺邸に通うようになった、というわけだ。

僕にとっての放課後の楽しみ。それは〈ささやかな〉なんてものではなく、それどころか〈生きる喜び〉と表現したっていいくらいだった。平日だけでなく、ときには休日にも僕は清凉寺さんに会うために彼の洋館へ足を運んだ。

母親には「図書館で勉強している」といっている。「清凉寺右近という学校の近くに住んでいる中年男性の家に通っている」なんていったら、どんな顔をされるか。行くなと怒られるに決まっている。アルバイトだって「そんなことしている暇があったら勉強しなさい」といって、禁止するような母なのだから、勉強もせずに見知らぬ男の家に出入りしているなんて知ったら、外出禁止令を出されるかもしれない。

とにかく、清凉寺さんのことは、母親には絶対に秘密にしなくてはならなかった。

 

 ――夜。

 眠くなるのを待つ間だけ、と清凉寺さんから借りた『ローマ帽子の謎』を読んでいた僕は、三分の二ほど読んだところで手を止めた。これ以上読むと、明日の休み時間に読む分がなくなってしまう。

 しかし、待てども眠気はこず、かといって勉強をしようなんていう高尚な精神も持ち合わせていない。そこで僕は、勉強机の引き出しから一冊の大学ノートを取り出した。

 表紙は色あせ、紙も弱ってきているそのノートは、二年前に亡くなった大叔父の遺品だった。

 母の父の弟にあたる彼は、生涯独り身で子どももなく、その遺品整理は僕の両親と僕、伯母――母の姉にあたる――夫婦によって行われた。このノートはそのとき見つかったものだ。

 このノートを見つけたのは、他でもない僕だった。一応、両親や伯母夫婦にも見せたが、皆、中をきちんと読もうとはしなかった。四人とも口をそろえて、

「こんな字、読めっこない」

 というのである。確かに、大叔父の字は特徴的で、まるで古典の教科書に載っている崩し字のようだった。

 中身は日記。といっても、日常的なことはほとんどなく、仕事の上で印象に残ったことを思いつくままに綴っていた。退職したのちに、書き記したものらしい。確かに文字は読みづらかったが、その内容はなかなか読みごたえがあって、つい僕はそれを家まで持って帰ってしまった。

 大叔父のことを僕はよく知らない。母によると、六十歳で仕事をやめたあとは、東京から四国の田舎へと引っ越し、七十八歳で亡くなるまで一人暮らしを続けていたらしい。

 両親も伯母夫婦も大叔父について知っていることは少なかった。皆、数えるほどしか会っていないのだという。親戚の中で唯一、大叔父と同世代である祖母(母の母である)は、遺品整理には来なかったので、話を聞くことはできなかった。その祖母も、去年亡くなった。もう、大叔父の話を誰かから聞くことはできないだろう。

 生まれてから一度も会ったことがなく、遺影の写真と棺の中の死に顔しか知らない大叔父。僕とは関係の希薄な彼の書き残した文章は、僕の心を奇妙に惹きつけた。

 心を惹きつける、という意味で大叔父は清凉寺さんに似ている。顏は清凉寺さんのほうがずっと綺麗だけど。

 清凉寺さんが大叔父の日記を読んだら、どんな顔をするだろうか。僕には想像もできなかった。

 

   3

 翌日。

 僕は教室の掃除もそこそこに、学校をあとにした。その足で真っ直ぐ、清凉寺さんの館に向かう。彼の家へと続く坂道も、すっかり歩き慣れた。

 チャイムを押すと、清凉寺さんはすぐに扉を開けてくれた。彼は、毎日のように通ってくる僕のことを、どう思っているのだろう。口では「邪魔じゃない」といってくれたけど、内心、迷惑に感じていないか、ときおり心配になる。

 今日も、館には清凉寺さん一人しかいなかった。僕は、この洋館にほかの人がいるのを見たことがない。清凉寺さんは一人暮らしだといっていたけど、客が来ている気配もないし、僕がいないあいだ、どんなことをしているのか、さっぱり見当もつかない。訊ねれば教えてくれるかもしれないが、なんとなくタイミングを逃してしまっていた。

「あの、これ、ありがとうございました。面白かったです」

 僕が鞄から『ローマ帽子の謎』を取り出し礼をいうと、清凉寺さんは「ふうん、それはよかった」とよく理解できていない顔で頷いた。

「どうだい。今日、新しく茶葉を買って来たんだけど、よかったら飲む?」

「いいんですか?」

「もちろん」

 清凉寺さんは愉快そうにクツクツ、と喉を鳴らすと、書斎を出て行った。紅茶を淹れるためにキッチンに向かったのだろう。彼の喉から出るクツクツ、という音。最初はよくわからなかったのだけど、やり取りをしていくうちに彼が上機嫌のとき特有の笑い方らしいことがわかった。

 待っているあいだ、本棚に並んだ背表紙を眺めていることにする。

 光の当たり具合の関係だろうか、五段ある棚ごとに背表紙の保存状態はだいぶ違っていた。上から二段に収まっているミステリ小説の背表紙はかなり色あせ、なかにはパッと見ではタイトルを確認できないものもある。

 それに対し、ファンタジーやSFの方は新しい本が多かった。もちろん、上二段に収められている本のように日焼けし、カバーの擦り切れた本もあるけれど、すべてがそうだというわけではない。

 一番下の段には、雑誌とレコード。どれも八十年代に発行されたり、新盤として発売されたりしたものばかりだった。SP盤がかなりの割合を占めている。それからCDが数枚。こちらは、比較的新しいものが揃っていた。

雑誌は主に音楽雑誌。音楽に興味のない僕には、ぱらぱらとページを捲ったところでさっぱり、どこが面白いのかわからなかった。

 けど、清凉寺氏にとっては、面白いものだったのだろう。ところどころに付箋が貼られていたり、赤ペンで印がつけられていたり。内容が理解できなくとも、これを読んでいた人の様子を考えるだけでじゅうぶん楽しめる。

 特に興味深かったのは、とある新人歌手(当時の新人で、今では誰もが知るベテラン歌手だ)のインタビュー記事だった。歌手の愛車について書かれたページだったのだけど、〈とっても素敵なカレの愛車はソアラ!〉というタイトルを赤ペンで何十にも囲っていた。

「この車で走るのが、とても気持ちいいんだ」という歌手の言葉にも、赤線がひかれ、その横に小さく赤文字で「ソアラに決定」と書き込まれている。恐らく、この記事を見て「ソアラを買うぞ」と決めたらしい。その歌手のレコードとCDが何枚か棚に入っていたから、好きな歌手の愛車を真似たいという気持ちがあったのだろう。清凉寺さんが聴くのなら、僕もこの歌手の歌を今度聴いてみようかな……。

 他の雑誌にもかなりの書き込みがあった。ずいぶん、この歌手にお熱だったらしい。彼の発表した楽曲についてまとめられたページには、なんと一曲ずつ個別に感想を書き込んでいた。それも一言ではなく、縦書きで何行もつらつらと書き連ねられている。書いている最中に手がこすれてしまったらしく、字がかすれて読みにくかった。

「お待たせ」

 雑誌を棚に戻したところで、清凉寺さんが書斎に戻ってきた。丸いお盆の上には、ティーポットとカップが二つ。それに小さな砂糖壺。

「これ、なんのお茶か、わかるかなあ?」

 ふんふんと鼻歌なんか歌いながら、清凉寺さんはポットをそっと傾けた。飴色の液体がカップの中に注がれる。バニラの甘い香りが、湯気とともにあたりに漂った。

「バニラ?」

「だけじゃないんだなあ」

 清凉寺さんはまた、クツクツと喉を鳴らした。よく見ると、クツ、クツ、という音に合わせて喉元が小刻みに震えているのがわかった。

「うーん……」

 カップに鼻を近づけると、バニラに混じって甘酸っぱい香りが嗅覚をくすぐったけれど、それの正体まではわからなかった。

「飲んでごらん。美味しいよ」

 清凉寺さんに促され、砂糖を入れずに少し、口に含む。バニラの紅茶とはいっても、アイスのバニラ味のような甘ったるさはない。そのかわり、酸味のある甘さ――食べたことのある味だ。

「いちご?」

「正解!」

「いちごとバニラの紅茶?」

「そのとおり」

 なんだかアイスみたいな紅茶だ。清凉寺さんは無類の紅茶好きらしく、駅前の茶葉店には週に一回のペースで通っているらしい。これまでにもリンゴのフレーバーティーや、ブレンドティーを何度か飲ませてもらったことがある。

「おいしい……」

「でしょ? 砂糖なしでも美味しいんだ、これ」

 清凉寺さんは自分のカップを持ち上げると、一口すすり、それから笑ってみせた。笑うと、彼の大きな目は糸のように細くなり、日向ぼっこをしている猫を連想させた。

清凉寺さん、昔から紅茶、好きだったんですか? その、子どもの頃から?」

「うん、そうだね……子どもの頃は、こんなにあれこれ、いろんな茶葉を試したりはできなかったけど」

「コーヒーとかは?」

 すると、清凉寺さんは小さく頭を左右に振ってみせた。

「飲めないんだよ、どうしても。胃もたれするんだ」

「ブラックコーヒーはダメ?」

「もう、全然」

「ミルクをいっぱい入れたら飲める?」

「ミルクが九割ぐらいあれば、飲めるかな……牛乳も飲みすぎると体調崩すんだ」

 それはもうコーヒーとは呼ばないだろう。

「それに、コーヒーより紅茶の方が身体に良いよ。カモミールとかローズヒップティーもビタミンが多いっていうし」

 母が「コーヒーは身体に良いの」と食事の前後に必ず、コーヒーを欠かさず飲んでいることを思い出したけど、なにもいわなかった。結局、人それぞれなのだろう。

「ねえ、清凉寺さん」

「なに?」

「この洋館って、いつごろからあるんですか?」

 清凉寺さんは記憶を探るように、一瞬視線を泳がせた。

「そうだなあ。もう六十年は経つね。僕は生まれたときから、この家に住んでたから」

 僕の住んでいる家が、確か築十三年だったはずだ。約五倍。母はよく「もう十年以上経っちゃった。古いし、そろそろどうにかしなくっちゃねえ」なんていっているが、この洋館を目の前にしたら築十三年を「古い」なんて、とてもいえなくなってしまうだろう。

「でも、すごくきれいですね。エアコンだって、新しいのがついているし」

 書斎に取り付けられたエアコンは、センサー付きの新型モデルだった。

 清凉寺さんはケタケタと愉快そうに笑って、

「そりゃあ、定期的に手を入れてるし、何十年も前のエアコンなんて使えっこないからね。でも、外観にはほとんど手を入れていないんだよ。外から見る限りは、六十年前のそのまんま」

 そこで、清凉寺さんはクツクツと喉を鳴らした。

「きみと初めて会った日のことだけど。きみ、この家を『きれいだ』っていってくれたよね。覚えてる?」

「はい」

 僕は頷いた。咄嗟に口から出た言葉とはいえ、あれは決して嘘ではなかった。くすんだ赤色のレンガを積み上げて作られた家は、セルリアンブルーの空を背景に、まるで絵本の一ページのような佇まいだった。

「覚えている限り、面と向かって『きれい』っていってくれたのは、きみぐらいのものだよ。ほかの人は『立派』とか『荘厳』とか『迫力がある』とか、そんな感じ。一番すごいのは『お化け屋敷みたいで不気味』かな」

「それ、面と向かっていわれたんですか?」

「いいや。近所の人が立ち話しているのを、偶然聞いちゃったんだ。僕たち、あまり外を出歩いたり、近所の人と交流したりってしてこなかったからね。そこらへんの道を歩いていても、すぐにはこの館の人間だとは気づかれないみたいでさ。僕がそばを通っても『あの洋館は気味が悪い、どんな人間が住んでいるのやら』みたいな話を堂々と続けてるんだから、おかしいよね」

 清凉寺さんは本当に、面白がっているようだった。

「そんなに、この洋館、お化け屋敷みたいに見えるかな?」

「学校で、その、学校の近所にお化け屋敷があるっていう噂は聞いたことがあります」

 僕の言葉に、清凉寺さんはくるんと目を見開いた。

「そうなの? それって、ウチのこと?」

「たぶん。洋館がどうとか、いってましたから」

 噂の中で〈清凉寺〉という名が出たことはない。〈お化けの出る洋館の噂〉なんて、インターネットで調べれば、それこそ世界中にゴロゴロと転がっていそうな話だし、その噂を口にする人間全員が清凉寺さんの洋館のことを知っているとは考えにくい。

 しかし、清凉寺さんはこの噂に俄然、興味が湧いてきたようだった。ソファに腰をおろすと、僕にも座るよう促し、

「その噂話って、どんなの? 洋館のこと、もっと詳しく説明しないの? ただ、お化け屋敷呼ばわりされているだけ?」

「ええとですね……」

 僕、友達がいないので、詳しいところまではわからないんですよ、とはいえなかった。自覚はしているつもりでも「友達がいない」と再認識するのは、少々苦しいものがある。

「殺人事件があって、その亡霊が漂ってる、とか、そんな感じですね……曖昧ですみません」

 少し、曖昧すぎるかとも思ったが、怪談なんてそんなものだろう。

「へえ……? ちなみに、その噂話の出所はどこか、なんていうのはわかる?」

 清凉寺さんの顔は、笑っていなかった。クツクツと喉を鳴らす気配もない。その表情から彼の考えを読み取ることはできなかった。

「え……いえ。無理だと思います。噂ですから……」

 理由になっていない気がしたが、清凉寺さんはそれ以上追及してはこなかった。思い出したように笑顔に戻って、

「ごめん、ごめん。そりゃあ、そうだよね。ひょっとして、怖がらせちゃったかい」

 どうやら、怖がっていると思わせるような顔を僕はしていたらしい。僕は慌てて頭を振った。

「あ、いえ……その、無責任ですよね。殺人があったなんて、適当なこと噂にして」

 僕の言葉を、清凉寺さんは、肯定はしなかった。

「適当……ではない、かな」

 僕は思わず生唾を飲み込んだ。音が聞こえていなければいいけど……。

 声が上ずらないよう気を付けながら、僕は訊ねる。

「適当じゃないって、まさか、ここで殺人事件があったんですか?」

「……もう、何十年も前の話だよ」

清凉寺さんが子どものころのこと?」

 いってしまってから、しまったと思った。この洋館は清凉寺さんが生まれる前からある。それなら、彼が生まれる前に起きた事件であるとも考えられるではないか。「何十年も前」と聞いてすぐに「清凉寺さんが子どものころ」といってしまったら、まるで彼が事件に巻き込まれていることを望んでいるみたいだ。

 けど、清凉寺さんは僕の台詞を不愉快には思わなかったらしい。

「そのとおり」

 そこで清凉寺さんはカップに残った紅茶を、一息に飲み干した。そういえば、僕も一口飲んだだけだったことに、今さら気づく。紅茶はすっかり冷めてしまっていた。

「僕が十五歳のときのことだよ。被害者は僕の父、清凉寺御苑(ぎょえん)だ……そして……」

「そして?」

 言葉が不自然に途切れたので、僕はつい、急かすようなことをしてしまった。けど、清凉寺さんは「そして」のあとにくるべき言葉は口にせず、空になったカップに紅茶を注いだ。

「紅茶、口にあわなかったかな?」

「……いえ。話に夢中になっちゃって」

 誤魔化すように僕は紅茶をすする。

 一方、清凉寺さんは苦笑いを浮かべていた。

「殺人事件の話に夢中、ねえ。怖くないのかい」

「怖くはないです」

「自分がいる建物でおきた殺人事件だよ。僕なら、ぞっとして二度とこないかもしれない」

「二度とこないほうがいいですか、僕」

 いってしまってから、ひねくれた物言いになってしまった気がして自分に嫌気がさした。もっと、ほかにいい方があっただろう。

 清凉寺さんはふっと顔を曇らせた。その表情は、お菓子売り場で母親とはぐれた幼児のそれに似ていた。

「ごめん、ごめん。そんなつもりじゃないんだ。来てくれていいよ、もちろん。きみくらいなんだ、紅茶を出せるお客様なんて……だから、また来てよ」

 そのとたん、すっと胸の内が温まるのを感じた。それは満足感のようでもあったし、出来の良かった試験を見返すときのような――つまり、自分はこのくらいの実力があるのだ、と自己陶酔に浸るときの気持ちにも似ていた。あるいは、誕生日に親戚からもらったプレゼントが、そのとき自分の欲しいものだったときの喜びのようでもあった。

 僕は「はい」と頷いた。頬が赤くなっていないか、心配だった。

「殺人とかそういうの、別に怖くないんです、僕。この書斎が殺人現場だったって怖くないです、ちっとも。死体だって、見たことあるし……」

 殺人現場に居合わせたことがあるわけではない。お葬式で曾祖父や祖母、大叔父の遺体を見た、という意味だ。死因は、他殺は一人もおらず皆、老衰か病死だった。

「だから、怖くないです」

「……例えば、その父を殺した犯人が、僕だといっても怖くはない?」

「怖くはないです。でも、嘘だと思います」

 僕の返答は、清凉寺さんを少し驚かせたようだった。

「どうして?」

「……なんとなく」

 清凉寺さんはそんなことしません、といった方が良かっただろうか。けど、それだと逆に演劇の台本臭くて相手にしてもらえなくなりそうだった。

清凉寺さんが、清凉寺さんのお父さんを殺したんですか?」

「……そうだよ」

「嘘ですね」

「それは、なんとなくそう思うだけだろう?」

清凉寺さん、耳たぶ触ってる」

「え?」

 そこで清凉寺さんはやっと、自分が右手の親指と人差し指で、自身の右耳の耳たぶを挟んでいることに気づいたらしい。どうやら、無意識にやるクセのようだった。

清凉寺さん、嘘を吐くときとか、冗談いうときによくそうしてますよ」

「初めて知ったよ……」

 清凉寺さんは少々恨めしそうに、自分の右手を見つめた。今まで、そんな指摘は受けたことがなかったらしい。

「……だから、嘘だと思ったんだね?」

「ええ」

 僕は出来る限り力強く、はっきりと頷いてみせた。少しでも説得力が出るように。

 

   4

清凉寺さんは、双子でしょう?」

 返事はなかった。清凉寺さんの双眸は、僕の顔に向けられている。大きく見開かれた目。近づけば、その瞳に僕の顔が映るのが見えるだろうか。

「ね、そうでしょう? 右近さんと左近さんの双子。違う?」

「……すごいね。ミステリ小説が好きな人は、そうやって人の兄弟の名前まで当てられるのかい。探偵……ううん、占い師かなにかみたいだ」

「そんなすごいものじゃありませんよ」

 僕は探偵ではないし、ましてや占いなんてやったこともない。

「玄関のところに、桜と橘があるでしょう? 『左近の桜、右近の橘』って教えてくれたの、ほかでもない清凉寺さんじゃないですか。桜と橘が植えてあるのに、人間は右近さんしかいないのは不自然だと思ったのがきっかけです」

 ほお、と清凉寺さんは感心したようなため息をついた。よかった。納得してもらえたらしい。それが嬉しくて、つい饒舌になってしまう。

「ほかにもありますよ。そこの本棚です。そこに並んでいるミステリ小説は、どれも昔……一九七〇年代に出版されたものばかりです。奥付を見ればわかります。清凉寺さん自身が買ったのだといっても、年齢的には問題ない。けど、清凉寺さんはあまりミステリには興味がないでしょう?」

「興味がないわけじゃないよ。その……よくわからないだけで」

 清凉寺さんは肩をちょっと竦めてみせた。

「ミステリ小説の話を振っても、反応が良くないから変だなって思ってたんです。そのかわり、SFやファンタジーはよく読んでいるし、本棚にもこうやって並んでいるでしょう。SFやファンタジーは、よく入れかわってるのに、ミステリのラインナップは変わらないし。じゃあ、ミステリ小説を買った人と、SFやファンタジーの本を買った人は別人って考えた方が自然、でしょ?」

「なるほど。よく見てるねえ。本当に探偵みたいだ。すごいよ」

 褒められて悪い気はしなかった。

「確かに僕には双子の兄がいたよ。清凉寺左近、という兄が」

「あそこの音楽雑誌は、左近さんの?」

 本棚に入っていた音楽雑誌は、どれも古いものばかりだった。恐らく、雑誌への書き込みも左近さんがしたものなのだろう。

「うん。兄は音楽が好きだったからね。レコードも兄のだ。あ、でも、CDは僕が買ったやつだよ。CDショップで予約して買ったんだ。初回限定盤なんだよ」

 今の世の中、CDの初回限定盤なんてあってないようなものだけど――だって、発売日から一年以上経っても簡単に手に入るものが〈限定盤〉なんて変じゃないか――清凉寺さんの少し自慢げな声が愛しくて、僕は素直に頷いた。できるかぎり、羨ましそうな顔をしながら。

「あの歌手、好きなんですか?」

「うん。左近との唯一の共通点だよ。ほかは、どうしても理解できなかった。推理小説はちんぷんかんぷんだし、車だって僕は別に欲しかないし。免許証も持ってないんだよ。そこも、左近とは違うところ」

「左近さんは車、持ってたんですか?」

「うん。若い頃、僕は病弱でね。今も、あまり丈夫じゃないけど。二十歳をこえても、夜中に高熱を出してヒイヒイいったりしてた。それを見て左近が『右近が熱を出したら、すぐに病院に連れていけるように』って免許を取って、車も買ったんだよ。まあ、もともと、車の運転には興味があったみたいで、よくドライブに出かけてたけど。僕も、よく連れて行ってもらったなあ」

「左近さんは、今、どこに?」

 何気なくきいた質問だった。けれど、その瞬間に清凉寺さんの顔に、すっと翳りがさしたのを見て、自分の質問のまずさを悟った。

「亡くなったよ。もう、ずっと前にね。三十年くらい前かな」

「え……」

 これは僕にとって、想定外のことだった。驚きのあまり、どう返していいのかわからなくなる。

「交通事故だった。その日にかぎって、あいつ、一人で出かけて行ったんだ……」

 彼の言葉は、まるで目の前にいない誰かを殴りつけるように荒々しく、殺意すら感じられた。

「出かける間際、左近、僕になんていったと思う? 笑いながら『今回ばかりは連れていけないな』って。なんでって訊いたら『デート』だよ。そのまま出てっちゃった……で、死体になって帰ってきた。ふざけてるだろう、女の子を迎えに行く途中で死んじゃったんだ、きっと……その相手がだれかは、未だにわからずじまいだし……酷いよね、左近が死んだのは、近畿なんだよ。そこまで迎えにこさせておいて、死んだら肉親に挨拶もなしなんて、どうかしてる」

 そこまでいって、自分の話している相手が誰だか、思い出したらしい。気まずそうに笑みをつくると、

「ごめん、きみに話すようなことじゃなかったね……」

 口元は笑っていたけど、その眉間には深い皺が刻み込まれたままだった。

「いいえ……僕のほうこそ、変なこと聞いてしまって、ごめんなさい」

 当時のことを思い出していたのだろう、清凉寺さんの表情は暗く沈んだままだった。伏し目がちの目元に睫毛が影を落としていて、そのせいでよけいに陰鬱な印象を受けてしまうのかもしれなかった。

 この話はもう、触れないほうがいいだろう。本筋とは関係ないことだし、これで殻に閉じこもって僕の話を聞いてくれなくなっても困る。

「ねえ、それで、殺人事件のこと、なんですけど」

「……え? ああ」

 清凉寺さんはもう、その話をしていたことを半ば忘れかけていたようだった。

「そういえば、その話をしていたんだっけ」

「ええ……清凉寺さんは、犯人じゃない、という前提をたてると、あなたのほかに犯人はいるわけになるでしょう。当然だけど」

「……左近だよ」

「犯人が、ですか?」

「うん」

 これは、予想できた返答だった。

清凉寺さん、左近さんをかばうために、自分が犯人だ、なんていったんですか?」

「それもあるし……僕は、左近になりたかった……いや、なりたいと思っているから、というのもあるかな……」

 その目は、僕のことを見てはいなかった。夢想するように、どこか遠くを見つめている。

「左近は、顔は僕に瓜二つだったけど、健康で頭も良くてね。性格も明るかった。病気ばかりの僕と違って、外で遊びまわることもできたし、そのぶん、友だちも多かった。僕は左近に憧れてた。と、同時に、妬ましくもあった。僕も左近になりたいって、ずっと思っていたんだよ……。だから、彼が死んでいなくなったとき、自分がその空いた席に座れないかと思ってさ、左近みたいな生活をしてみようって考えたんだ。けど、無理だった。しょせん、右近は右近、左近は左近。左が右になることなんて、できやしないんだね」

 清凉寺さんの顔には、自虐的な笑みが浮かんでいた。

「僕は、右近さんのこと、好きですよ」

 清凉寺左近氏には会ったことがないけれど、なんとなく、右近さんのほうが好きな気がする。きらきらして、明るすぎる人は苦手だ。

「ありがとう」

 やっと清凉寺さんの表情が和らいだ気がして、僕は内心、ほっとしていた。ついでに、どさくさにまぎれて「右近さん」と呼べたことに満足もしていた。

「でも、どうして左近さんだと思うんです? ひょっとして、その現場を目撃したとか?」

「いいや。実際に見たわけじゃない。けど、いったんだよ。左近が……自分が殺したって、いったんだ」

「じゃあ、左近さんは逮捕されたんですか?」

 その答えはまたしても「いいや」だった。

「もみ消されたんだよ、この事件は。なかったことにされたんだ。してくれた、というべきかな。おかげで、僕は左近と離れ離れにならずに済んだんだから」

 それから彼はボソリと「でも、もう、今は一緒にはいないけど」と付け足した。つい、口から零れてしまったようだった。

「殺人事件を?」

「あり得ないと思うだろうね。けど、できちゃったんだよ。僕がやったんじゃないけどね。うちの、専属の、といえばいいのかな、父がしょっちゅうお世話になってた弁護士さんがさ、『このことが表沙汰になっても、誰も得をしませんから、あなたたちのお父さんは心臓麻痺で亡くなったことにしましょう』っていって、いろいろ手回ししてくれた。高遠って弁護士さんだったんだけど、僕たちのこともずいぶん親身に考えてくれてね。かかりつけ医をいいくるめたり、こっそり葬式の手配をしてくれたり……葬式も、参列者は事件のことを知っている者だけのこぢんまりしたものだった……死体を見られると、やっかいだからね」

「かかりつけ医をいいくるめる、って、簡単なことじゃないと思うんですけど……」

「うん。いくらか、お金を渡したみたいだよ」

「みたい、って右近さん、どれくらいのことを知ってるんですか?」

「うーん……あのころ、僕は子どもだったし、やっぱりそれなりにはショックを受けてたからなあ……記憶があいまいなんだよ。それに、手続きのほとんどは、高遠さんがやってくれたから、よくわかんないんだ」

 本当に、よくわかっていないようだった。

「ふつう、知っていると思うんですけど……自分の家に関わることなんだし」といってみても、きょとんとしている。そして、

「そんなこといったって、子どもだったからねえ」

 と繰り返すばかりなのだ。

「でも、そのとき子どもでも、大人になったら、その高遠って人から聞こうとは思わなかったんですか? いくらくらい渡したか、気にならないの? 医者に金を渡して黙らせたとして、それが高遠のポケットマネーだとは限らないでしょう。むしろ、右近さんの家の金を使ったと考えるほうが自然です。御苑さんが亡くなったあと、家の財産の管理をしていたのは、右近さんでも左近さんでもないでしょう?」

「うん。僕らが成人するまでの間は、高遠さんが管理してくれていたよ」

「高遠がどんなふうに財産を管理していたのかは、知ってるんですか?」

「え? 詳しくは知らないけど、僕たちがお金を使うのを、厳しく制限してきたりはしなかったよ。入用になったら、その都度、高遠さんに連絡して出してもらって、って感じだったな」

「今、財産の残りはいくら、とか、そういうのは教えてもらってました?」

「ああ、二十歳のときに教えてもらったよ。あと、残りこれだけだから、自分たちで管理なさいって。正直、びっくりしたよ。こんなにたくさんあるなら、もっと贅沢すりゃ良かったって、左近と笑ったくらいだからね。財産のおかげで、僕、一度もまともに就職したことがないけど、こうやってきちんと食べていけているし……あ、たまに友人の雑誌に簡単な文章を書いて載せてもらったりしているから、まったくの無職じゃないけど」

 きちんと就職もせずに、こんなに大きな洋館に住み続けることが出来ているのなら、かなりの額の財産が残っていたのだろう。

「でも、残りの額を定期的に教えてもらったわけじゃありませんよね?」

「うん。いちいち、知ろうとも思わなかったしね。左近も僕も、残りがやばくなったら、高遠さんがいうだろうと思って、まあ、贅沢しなけりゃいいか、ぐらいにしか考えていなかったし」

 二人そろって、いくらなんでもおおらかすぎる、と思った。それに、高遠という弁護士を信用しすぎているきらいもある。そう感じるのは、僕がひねくれているから、というわけではないだろう。

 僕が清凉寺さんたちの立場なら、少なからず高遠弁護士のことを疑うと思う。財産の残額を定期的に教えてくれなかったりしたら、着服しているのではないかと不審に思うだろう。

 けど、清凉寺さんにはそんな考え方が微塵もないようだった。高遠弁護士を、心の底から信用しているらしい。

 もちろん、僕は清凉寺さんと高遠の二人が具体的にどんな関係だったかは知らないから、清凉寺さんが彼を信用するに値する関わり合いがあったのかもしれない。

 けど、それにしたって清凉寺さんは純真すぎる気がした。あまりにも簡単に人を信用しすぎている。だからこそ、面識のない僕のことも気安く家に入れてくれたのかもしれない。

 清凉寺さんは、まるで子どもだった。それは、ワガママだとか自己中心的だというわけではなく、疑うことを知らず、あまりにも純真無垢すぎる、という意味で子どもだった。

 いっけんすると、落ち着いた大人の男性だけど、その実は危なっかしい幼子なのだ。放っておいてはいけない。きちんと見守り、コントロールしてあげないといけない。でないと、彼は蝶々を追いかけて崖から転がり落ちてしまう。

「ねえ、右近さん。事件の日のこと、覚えてますか?」

 すると、清凉寺さんは記憶をさぐるように一瞬視線を彷徨わせた。

「うーん……ずいぶん昔のことだからな……覚えてることは覚えてるけど、どこまで正しいかどうか……」

「とりあえず、聞かせてもらえませんか。なにか、わかるかもしれない」

「なにかって……?」

 清凉寺さんは怪訝そうに僕の顔を見た。

「それはまだわかりませんけど、とりあえず話してみてください」

 僕に促され、清凉寺さんは「わかった」と素直に頷いた。

「あれは、十五歳の冬だった。日付までは覚えていないけど、十二月のことだったと思う。ひどく冷える日だったのは、ハッキリと覚えてるよ。その日、僕は少々体調を崩していてね、でも、寝込むほどじゃなかったから、食堂でミルクティーを飲みながら読書をしていた。左近は自分の部屋で音楽を聴いていたらしい。一階にいても音が聴こえていたから、本当だと思う。それから、通いの家政婦さんはキッチンで昼ご飯の片づけと、夕飯の支度をしていた。父は高遠さんと二人でなにか相談事をしていたみたいだ。内容までは知らないけど、たいしたことじゃないと思う。父の清凉寺御苑は法律の研究家でね、論文を書くとき、高遠さんに相談したりしていたみたいだから。当時、この家にいた人間は、それだけだ。母は、僕らが幼い頃に家を出て行ってしまったから、事件には関係ないと思う。

 一時ごろ、みんなでそろって食堂でご飯を食べて……あまり良い雰囲気じゃなかったよ、その日は。左近は音楽好きでね、お小遣いでよくレコードを買いあさっていたんだけど、父はそれが気に入らなかったらしい。ついでに、左近が愛読していた推理小説の類も、父には不評だった。それは、僕の読んでいたファンタジーでも言えることだったけど。

 食事の最中に僕たちに向かって『お前たちも、もうすぐ高校に行くことになるんだから、もう少し真面目に勉強しろ』とね。『じゃないと、まともな大学に行くこともできないぞ』って。

 僕も左近も反抗期だったから『言われなくてもきちんとやっているし、自分たちがやってるのは、ただの遊びじゃない』みたいなことを反論したんだ。今思うと恥ずかしいんだけど、当時、僕は小説家志望で読書もひとつの勉強だと思ってた。左近は左近で歌手志望だったらしくて、そのための勉強として音楽をたくさん聴いてるんだって言ってたな。それで、父の機嫌が悪くなっちゃって……『勝手にしろ!』って怒鳴られちゃった。

 機嫌が悪いといえば、高遠さんも、その日はあまり調子が良いみたいだった。父と違って、イライラを表に出すようなことはしなかったけど。

あのう、僕、高遠さんには懐いていたんだよね。

 自分で言うのも恥ずかしいんだけど、十五歳になっても甘えん坊というか、幼いところがあってね、僕は。特に高遠さんにはつい、甘えたくなっちゃって、彼が家にくるたびに抱っこしてもらってたんだ。成人式の日に、高遠さんに『抱っこをせがんでくる方が右近で、こない方が左近』っていうふうに僕たちのことを見分てたって言われて……左近にも笑われて、恥ずかしかったな、あのときは……。

 あ、それで、そう。問題の日なんだけど、あの日も僕、高遠さんがうちにくると一番に抱っこをせがんだんだ。けど、断られちゃって。数日前から手首を痛めてるからって……。表情も沈んでいてね、精神面でもあまり調子が良くなさそうだった。

 いつも通りなのは、家政婦さんくらいで、この人は三十歳くらいの女の人だったんだけど、もともと、ちょっと不愛想な人でね。僕は彼女のこと、ちょっと苦手だった。

 その日は、家全体がなんというか、調子が悪かったんだ……」

 そこで清凉寺さんはいったん言葉を切った。

「ええと、それで……どういう順番で話していけばいいかな……?」

 その表情はまるで、親とはぐれて迷子センターにつれてこられた少年だった。

「時系列順で良いと思います。昼ご飯を食べて、そのあと、皆、それぞれに時間を過ごしていたんですよね?」

「うん……昼ご飯のあと、左近はさっさと自分の部屋に引きこもってしまった。僕はなぜか無性にミルクティーが飲みたくなったものだから、二階の自室から本を持ってきて、それを読みながらミルクティーを飲んでいたよ。飲み食いはリビングでしかしてはいけないって、しつけられていたからね。父と高遠さんは、食後すぐに父の書斎へ行ってしまった。一時間くらいしてから、高遠さんだけリビングに戻ってきた。たぶん、父は書斎に籠っていたんだと思う。家政婦さんはずっとリビングのとなりのキッチンに……いたんだと思うよ。僕もずっと、リビングにいたわけじゃないから、わからないけど」

「ずっとリビングにいたわけじゃないって、書斎に行ったりしたわけじゃないですよね?」

「うん。ただ、自分の部屋へ本を取りに、一度、二階へあがったけど。僕と左近の寝室と、父の書斎は二階にあるんだ。ちなみに父の寝室は、書斎と一続きになってる。この情報、要らないかな……?」

「さあ、今はまだなんとも。一度、二階へあがったとき、そのときは自室以外には足を踏み入れていないんですね?」

「うん。父とは顔を合わせたくなかったから、書斎に入るどころかサッサと逃げよう、と思っていたくらいだし。左近の部屋にも寄らなかったな……こっちは特に、理由があったわけじゃないけど。部屋からは音楽がダダ漏れで、あんな大きな音でいつも聴いて、耳が痛くならないのかなって思ったのは覚えてる」

「書斎のほうからは、なにか物音は?」

「……特に、思い出せないなあ」

「ちなみに、二階の部屋の並びはどうなっているんですか?」

「ええと……まず、一階と二階をつなぐ階段が一番東端にあって、階段をあがってすぐの廊下を挟んで向かい合っている二部屋はゲストルーム。で、その隣が左近の部屋。さらにその隣の、一番西端に僕の部屋があって、僕と左近の部屋と向かい合うようにして父の書斎と寝室がある。寝室が左近の部屋の、書斎が僕の部屋のちょうど真向いにあって、あとは廊下の突き当りにお手洗いが一つあって、これで全部……この説明でわかる?」

 僕は念のため、清凉寺さんの説明に従って部屋の配置を手帳にメモしておいた。図があった方が、のちのち便利かもしれないと思ったのだ。

 ちなみに、今僕たちがいる〈書斎〉は一階の部屋なので、事件現場ではない、ということになる。あとで清凉寺さんに訊いたところによると、昔は客間だった部屋に手を入れて書斎に改装したらしい。

「では、高遠についてはどうでしょう。高遠は御苑さんと書斎に行き、その後、一人でリビングに戻ってきた。そのあとは、リビングにずっといたんですか?」

「うん。ずっと、お喋りしていたから」

 清凉寺さんが僕の質問に素直に答えてくれるのはありがたかった。「どうしてそんなことを訊くんだ」などといちいち言われでもしたら、話が前に進まない。

「お父さんが亡くなっているのを見つけたのは、いつごろのことでしょう?」

「夕方だよ。夕方の……五時近かったかな……。家政婦さんはいつも、それくらいの時間に帰るんだ。帰る時にはいつも、父に一声かけるようにしていてね。あのときも、彼女は父に帰ることを告げるために書斎に向かった。そして、死体を発見した、というわけだ」

「そのときの状況、もう少し詳しく思い出せますか? 第一発見者は家政婦だった、ということですね?」

「うん。僕と高遠さんはリビングにいたんだけど、家政婦さんの悲鳴を聞いて二階に駆けつけたんだ。左近も悲鳴を聞いたんだろう、僕らがたどり着いたときには、彼も書斎の前に立っていた。立ち尽くしていた、って感じかな。家政婦さんは相当驚いたらしくて、腰を抜かしちゃってた。

 僕もびっくりしたよ。最初、それがなにかわからなかった。高遠さんが『清凉寺さん!』って声をあげて書斎の中へ入って行って、それで初めて、目の前にあるものが父だって気づいたくらいだ。父は頭から血を流して倒れてた。頭の、ここらへん、かな」

 そう言って清凉寺さんは、自分の右側頭部を軽くたたいて見せた。

「なにがなにやら、わけがわからなくてね。高遠さんが『死んでる』って言ったときも、その意味すらわからなかった。夢でも見てるみたいに、ふわふわと気持ち悪かったのは覚えてる。左近が『僕が殺した』って言わなけりゃ、僕、ずっとふわふわしたままだったかもしれない」

「左近さんは自分から、自分が殺した、と言ったんですね?」

「ああ。でも、それきり黙っちゃって。僕も、なんて言えばいいのかわからなくて、なにも訊けなかった。家政婦さんも、ぽかんとして……今にも気絶してしまいそうだった。ただ、高遠さんだけが『そうか、きみか』って。あとはさっき話した通り。高遠さんが事件のことを隠そうって言い出して。家政婦さんは反対したさそうだったけど、退職金もたんまり出すし、次の就職先も好条件なところを見つけるって高遠さんに説得されて、それを飲んだみたい。高遠さんのおかげで、事件はなかったことになった……というわけ」

「右近さんは、左近さんの言葉を信じたんですか?」

 返事は、とても歯切れの悪いものだった。

「左近が……そう言った、から……」

 悲し気に目を伏せる彼の姿は、儚げで、どうしてこの人は今日まで一人で生きてこれたのだろうと疑問に思ってしまった。疑うということを知らないのだろうか。……いいや、彼だって信じたくはないのだろう。

「その言葉を本当に信じているんですか?」

 返事は返ってこなかった。

「左近さんが犯人だと裏付ける物的証拠があったわけではないでしょう? なら、左近さんが犯人ではないと、証明できるかもしれません」

 清凉寺さんの目が大きく見開かれた。黒々とした瞳の中で、光の玉が揺れる。彼に近寄って、その瞳に自分の姿を映したい欲求に胸をかき乱される。

「証明できるって、紫希君が、かい……?」

「ええ。当時の様子を、もう少し詳しく聞ければ、ですけど」

「話だけで……? ……紫希君はひょっとして、本当に探偵なのかい?」

「まさか」

 思わず、苦笑いを浮かべてしまう。

「僕は、ただの高校生ですよ」

 あなたのことを愛したいだけの、とは言わなかった。少し、気持ち悪い気がしたから。

「ほかに、なにか覚えていませんか? 凶器はわかります?」

「わかるよ。灰皿だ。父の書斎にあったガラス製の重たそうなやつ……血がべっとりついていたから、間違いない」

「ふうん……御苑さんは、喫煙者だったんですね?」

「愛煙家ってやつだったよ。銘柄なんかにも、ずいぶんこだわってたみたい」

「ヘビースモーカーだった?」

「それそれ。朝の一服、昼の一服、夜にも一服……いつも煙草を口に銜えてた印象があるよ。家のあちこちに灰皿があったし」

「じゃあ、灰皿の中には、煙草の灰や吸い殻が入っていたと思うんですけど、現場は大変なことになっていたんじゃないですか?」

「え……? ……ああ、そういえば、父の服に灰がついてたっけ……でも吸い殻なんて……あったかなあ?」

 清凉寺さんは覚えていない、というふうに首を何度か傾げた。

「ヘビースモーカーだったのなら、灰皿の中に吸い殻や灰が溜まっていた可能性が高いと思います。そして、そんなものを凶器に選んだところからして、犯人は計画的に犯行を企てていたのではなく、発作的に殴ってしまったと考えられます」

「ふむ……それで?」

「今、犯行現場において妙だと指摘できる点は二点。一つ目は、傷が右側頭部にあるということ。もう一つは、現場に吸い殻や灰が残されていなかったらしい、ということ」

「そんなに妙かな……? 殴られたのが、右側頭部だと変かい?」

「ええ。その場に凶器と選んだことから、犯人は衝動的に御苑さんに殴り掛かってしまったんでしょう。一応、確認ですけど、そのガラスの灰皿って重いですよね?」

「うん……今はもうないけど、子どもの頃、手に取ったことがある。かなりの重さだったよ」

「そんな重いものを、なぜ片手で持ったのでしょう。衝動的といえども、重いものを持つときは人間、無意識のうちに両手を使うものです。両手で灰皿を持って殴り掛かろうとすると、どうなるかわかりますか? 両手で灰皿を振り上げ、相手の頭を殴りつける。具体的には、相手の頭のどんな部分に当たるでしょう? 相手の頭頂部、あるいは額、あるいは後頭部……真ん中に当たるのが普通ではないですか? 両手を使って、殴ったのなら」

「そんなのわからないよ。偶然、横から殴りつけたのかもしれないし……父が避けようとしたから、そうなったのかも」

「偶然、に頼らないでくださいよ。現場には争った跡はありましたか?」

「……いいや。特別荒れていたようなことはなかったと思う」

「もし、正面から殴り掛かられていたら、当然、抵抗するでしょう。そのような痕跡がなかった、ということは背後から殴り掛かった可能性大、です。なので、避けたという可能性はなし。それから、さっきも言いましたけど、今回の犯人は恐らく衝動的に御苑さんを殴ったのだと思います。衝動的に殴り掛かった人間が、わざわざ、右側頭部を狙うとは考えにくいんです」

「じゃ、どういうことだい? 犯人は、衝動的に片手で灰皿を持って、殴り掛かった、と?」

「はい。そうせざるをえなかったんですよ、無意識のうちに、ね。犯人は右手しか使えない状態にあったんです。犯人は左手が使えなかった。ハッキリ言いましょうか。犯人は左手を痛めていた高遠以外ありえないんです」

 正念場だと思った。自分の〈推理〉にどれだけの説得力を持たせられるか、そして、その話で清凉寺さんを納得させられるか。

「他にも、根拠となりそうな証拠はあります。右近さんと左近さんは、煙草は喫いましたか? 十五歳当時」

「まさか」

「じゃあ、家政婦と高遠は?」

「家政婦さんは、喫わなかった。肺が少し弱いんだって……高遠さんは、喫ってたよ。父と話を合わせるためだったかもしれないけど、よく、おいしいって言いながら喫ってた」

「もう一度、きちんと思い出してほしいんですけど、書斎に吸い殻や灰の類はなかったんですか?」

「……吸い殻は、なかったと思う。灰は……父の背広が灰で汚れていたのは覚えてるよ。背広は黒かったから、灰が良く目立ったんだ。それから、髪にもついていた気がする」

 どうして、そんな質問するのだろう、というふうに彼は僕の目を見つめてきた。

「普通の人は、好き好んで自分の服に煙草の灰をつけたりしませんよ。十中八九、それは灰皿で殴られたときについたものです。中に入っていた灰が零れてね。灰があるなら当然、吸い殻もあるはずだ。なのに、吸い殻はないと言う。この吸い殻は、どこへ行ってしまったのでしょう?」

「さあ……僕が見落としてた可能性もあるし」

「いえ。犯人である高遠が持ち去ったんですよ、恐らく。灰皿には、御苑さんと高遠の二人分の吸い殻と灰が残されていたのでしょう。それも、同じ銘柄の吸い殻が。御苑さんを殴り、我に返った高遠は、咄嗟に自分の唾液がついている吸い殻を持ち去ろうと考えた。当時の捜査技術なら、唾液から個人まではいかなくとも、血液型くらいはわかったことでしょう。高遠はそれを恐れた。つまり、その時点ではまだ、彼は警察が現場に来ることを予想していたわけです。吸い殻を隠さなければならない、けど、どちらが自分の喫ったものかわからなくなってしまった、だから、そこにあった吸い殻すべてを持ち去った。そんなことをしなくてはならないのは、喫煙者である高遠以外にありえないんです」

 そこで僕は言葉を区切り、紅茶で喉を潤した。温かかった紅茶は、すっかり温くなってしまった。

「新しいの、淹れようか」

「いえ、大丈夫です」

 今、新しいお茶をもらうと、気が抜けて最後まで話しきれないような気がした。ほっとするのは、全てを話し終えた後のほうが良い。

「その後、家政婦が死体を発見し事件が発覚。高遠のシナリオとしては、次に警察を呼ぶことになっていたでしょう。というより、誰かが警察を呼ぼうと言い出すに違いないと思っていた。でも、そうはならなかった。左近さんが『自分が殺した』と言い出したのです。左近さんは右近さんほどは高遠さんには懐いていませんでしたから、どうしてそんなことを言うのか、不思議に思ったでしょうね。けど、それでも高遠は、罪を被せることにした。事件を隠ぺいしようなどと言い出したのもそのためです。もし、仮に警察を呼んで、その後に左近さんの気が変わって自分はやっていない、犯人は高遠だ、などと言われては厄介ですからね。それに、煙草の灰のこともある。プロの捜査員が入れば一発だと思ったのでしょう」

 清凉寺さんは「うう……」と小さく呻き声を漏らした。彼は今、何を思っているのだろう。「信じられない」だろうか。それとも、高遠に対する怒りを感じ始めているだろうか。

「けど……じゃあ、左近は高遠さんを庇おうとして、嘘をついたのかい?」

「いえ、違うと思います」

 恐らく、それはないだろう。そもそも、その時点ではまだ、左近氏は高遠が犯人だとは気づいていなかったのではないか。

「たぶん、ですけど。左近さんは、右近さんが犯人だと思ったのではないでしょうか?」

「僕が?」

 これは証拠も何もない、僕の勝手な憶測に過ぎない。でも僕は「はい」とうなずいた。

「右近さん、本を取りに行くために二階にあがった、と言っていましたよね。その時の様子を、左近さんは見かけていたのではないでしょうか。そのことを死体を見つけたときに思い出して、咄嗟に嘘をついた……そういう可能性はなくはないと思います」

 最後に僕は「勝手な憶測ですけど」と付け足した。せめて清凉寺左近氏にこのことを確認できれば、もう少し気が楽だったろうに。

「僕、書斎にいる父に気づかれないようコソコソ歩いてたから……自分の部屋から出て来るところを見ていなかったら、そう見えていたかもしれない……」

「ええ。それに後姿を目撃したのだとしたら、本を持っているのも見えなかった可能性が高いですし」

 もしもこのとき、左近氏が右近さんに一声かけていたら。あるいは、左近氏が目撃していなければ……右近さんが本を取りに行かなければ……事態は違っていたかもしれないのに。

 過去のことを責めていても仕方がない。〈もしも〉は結局〈もしも〉でしかないのだ。

「ねえ、それからね、右近さん。左近さんが亡くなった日、左近さんはひょっとするとデートなんかじゃなかったのかもしれません。高遠に会いに行こうとしていたのかも」

「……どうして?」

「高遠が犯人だと左近さんも気づいたから、ではないでしょうか。推理をして。そして、それを確かめに行こうとして事故に遭った。行くのを右近さんに言わなかったのは、高遠さんによく懐いていたあなたを悲しませたくなかったから……」

 これは、たった今、思いついたことだった。けれど、全くあり得ないことではないと思う。

「なら……じゃあ、僕は、もうずっと左近がデートに行って死んだと勘違いして、怒り続けてたのか……左近の気も知らずに……?」

 清凉寺さんの声は枯れていた。

「はっきりそうだとは言えません。僕も左近さんに確かめたわけじゃないから……」

「そうだ……そうだね。左近に聞いてみなきゃ、そんなことわからないよね……でも、もういない……父も左近も高遠さんも皆、もうどこかへ行ってしまった。皆、もういないんだ」

「僕は、いますよ」

 清凉寺さんは中途半端に口を開けたまま、僕を見つめてきた。瞳が、小刻みに震えている。僕も見つめ返す。彼の瞳の中に、僕はいた。

清凉寺さんの言う「皆」に僕は含まれていないことは、わかっている。けれど、言わずにはいられなかった。

 やがて、清凉寺さんは静かにほほ笑んでくれた。

「そうだね」

 その笑みに、僕はほっとする。これで良かったのだ。

 外の光は、いつの間にか朱色に変っていた。

 それを受けて室内もとっぷりと赤い光に染まっている。

 朱色というより、紅色に近い風景だった。

 

   5

 帰る前に一杯だけ、と言いつつ、僕はバニラといちごの紅茶を三杯もおかわりしてしまった。

 そして、その夜。僕はベッドの上に寝転がり、大叔父の書き記したノートを読み返していた。

 といっても、僕はここ最近、日記のほんの決まった箇所ばかり読んでいた。

 大叔父が弁護士として働いていたころの記録。勤め先である事務所は、どうやら僕が通っている高校の近所にあったらしい。該当するであろう場所は、今は更地になっているので確認のしようがないが。

 大叔父はなかなか腕のいい弁護士だったらしく、その土地では有数の名家と顧問契約を結んでいた。今では衰退してしまったものの、当時はなかなか名の通った家だったらしい。

 契約の相手は、清凉寺家。厳密にいえば、清凉寺家当主、清凉寺御苑。

 僕の大叔父の名は、高遠光則、といった。

 僕は最初に清凉寺さんの家を見つけたとき、おや、と思ったものだ。確か、こんな名前が大叔父のノートの中になかったか、と。

 清凉寺なんて、そこらじゅうにある名前とも思えない。それに、目の前にあるのは年期は入っているが、立派な洋館。名家と呼ばれる人間が住むに相応しい家だ。

 この目の前にある〈清凉寺家〉はひょっとして、ノートの中の〈清凉寺家〉とイコールなのだろうか、とその時は軽い好奇心でしかなかった。

 あの人が現れるまでは。

 道の真ん中に佇み、僕を見てきた清凉寺右近という男は、どこか現実味のない人だった。蜃気楼などの類とは違う、世間の波に入り損ねた小さななにか。

 あのとき僕は、無意識のうちに彼の持つ雰囲気に、自分のことを重ね合わせていたように思う。そして、そのうえで、僕は彼の外見に見惚れてしまった。

 だから、僕は清凉寺さんの家に通うようになった。彼は、僕の気持ちに全く気付いていないようだったけど――当然のことかもしれない――それでも僕は幸せだった。

 もっと、清凉寺さんの心に近づきたい。二人だけの場所が欲しい。

 そう願う僕にとって、大叔父である高遠が残した記録と罪は、とても好都合なものだった。

 ノートには、全て記してあったのだ。高遠が清凉寺さんのお父さんを殺した真犯人であること、動機は自分の学歴を詰られカッとなって殴ってしまったこと、唾液から血液型を鑑定されるのが怖くて吸い殻を持ち去ったことなどなど。

 もちろん、ノートに残されていたのは、事件のことだけではない。清凉寺右近と清凉寺左近の双子についても、多くのことが記されていた。右近はSFやファンタジー小説が好きで、身体が弱く、紅茶を好んで飲む。対して、左近は推理小説や音楽が好きで、身体は丈夫、紅茶よりコーヒーが好き。玄関の前の橘と桜は、彼らの名前にちなんで植えられたものらしい。

 全ては簡単なことだった。目の前に書き記された〈答え〉を自分の考えとして読み上げただけなのだから。要するに、カンニングだ。

 僕が推理したのは、二つ。左近氏が嘘の自白をした動機と、亡くなった日、なにをしようとしていたか、ということ。

 前者については、大叔父も理解できなかったらしく、ただ「なぜかはわからないが、この際、好都合だと思った」という風にだけ書いていた。後者については、そもそも左近さんが亡くなったこと自体、知らなかったのだろう、ノートのどこにも記述はなかった。

 ただ、近畿地方で亡くなったと聞いて、ピンとくるものがあったのだ。当時、大叔父が住んでいたのは恐らく四国。関東から四国に行くには、近畿地方を通らなくてはならない。つまり、左近さんは何らかの方法で大叔父が四国にいることを突き止め、会いに行こうとしていたのではないか……と、これは推量なので、結局のところ、左近氏に訊ねないとわからないけれど。

 僕がこの事件のことをわざわざ清凉寺さんに問いかけたのは、ただの好奇心からではない。

 チャンスだ、と思ったからだ。

 彼の心の中に、今よりもう一歩近寄るチャンスだと。

 清凉寺さんは左近氏が犯人だと思っている可能性がある。だとすれば、それを訂正して、秘密を共有すれば僕らはより精神的に近しい存在になれるのではないか。そんな気がした。

 幸い、大叔父と苗字は異なっていたから、僕が高遠の親類だとばれる可能性は低い。高遠の親類だとは、知られたくなかった。もし知られれば、僕らの関係は大きく変わってしまう。被害者の息子と、加害者の親類。それでは、近づくどころか、逆に遠のいてしまう。下手をすると、二度と近寄れなくなってしまうかもしれない。

 だから、僕は大叔父のノートの存在を隠した。そして、怪談話を装い、その話をこっそりと振ってみた。

 結果はうまくいった、と思う。

 僕と清凉寺さんだけが知っていること。二人だけの秘密。秘密の共有は、心の繋がり。僕は清凉寺さんとこの先ずっと、繋がっていたい。繋がって、彼を守り続けるのだ。幼くて、世間知らずの清凉寺右近という名の幼子を。

 清凉寺さんがこの先、僕を疑うことは永久にないだろう。彼には〈疑う〉能力が欠如しているのだから。それどころか、彼は、僕のことを探偵と信じ、頼りすらしてくれるかもしれない。

 それからもう一つ、僕は清凉寺さんに隠しごとをしている。

 清凉寺さんの母親は、彼が若いうちに家を出て行った。その後、彼女がどうしているか、清凉寺家の人間は把握していなかったようだが、大叔父の高遠光則だけは彼女のその後を知っていた。そのことも、きちんとノートに記されていた。

 彼女は、高遠の兄と結婚したのだ。つまり、僕の祖父である。

 清凉寺さんの母である女性は、同時に僕の祖母でもあった。こんな偶然、めったにあるものか。それを知ったとき僕は、血の繋がりなんて興味がないと思いつつも、彼との新しい接点に興奮を覚えた。

 しかし、このことを清凉寺さんに伝えるつもりはない。僕はあくまで、清凉寺右近という男性と、他人でいたいから。他人であるからこそ、秘密の共有が特別なものになるし、築ける関係もある。

 僕は彼と血の繋がりのある人間としてではなく、梅野紫希個人として、清凉寺右近という個人と繋がりたい。そして、守り抜きたい。愛し続けたい。

 考えているうちに、眠くなってきた。

 僕はノートを勉強机の引き出しの奥にしまう。もう二度と、開くことはないだろう。

 明日も、僕は清凉寺さんの家に行こう。バニラといちごの紅茶に似合うお菓子を持って行ってもいいかもしれない。なにが合うかな……なにを持っていけば、彼は喜んでくれるだろう。

 まだなにを買うのかも決めていない菓子と、それを見て喜ぶ清凉寺さんの顔を思い浮かべながら、僕はゆっくりと眠りの底へと沈んでいった。

 今夜は、いい夢がみれそうだ。