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原稿(窓の外のあなた)

創作の思い出

原稿ぽいするときのタイトル、統一したい。……作品名でいいかな。

完結はしている。

 

 

窓の外のあなた

 

 

 雑然とした路地裏を、彼は歩いていた。

 ガラクタのような家々のあいだを毛細血管のように細い路地が広がっている。狭い道。無造作に置かれている――あるいは捨てられている自転車や鉄くずなどをよけながら、彼は進んでいく。少し油断すると、彼のコートの裾はすぐにそれらに引っかかった。

 休日の昼間だというのに、人のひとりとも出会わない。ときおり、どこからかテレビの音や話し声、掃除機の音などが聞こえるから、みんな、家の中に閉じこもっているのだろう。

 そのほうがいい、と彼――タオは思った。この残暑の厳しい九月に、黒いロングコートに身を包んだ男がいたら好奇の目で見られることは間違いないだろうから。ただ見られるだけならまだいい方で、下手をすると不審者として警察に通報されてしまうかもしれない。

 タオが年から年中黒いロングコートに身を包んでいるのに、大きな理由はない。ただ、仕事着というものがあったほうが身がしまるし、職業柄、奇怪な格好をしている方が「それっぽく」見えると考えているからだ。

 タオの仕事は、心霊探偵だった。

 

***

 

 しばらくの間、入り組んだ路地をわき目もふらず歩き続けていたタオだったが、ある一軒のアパートの前で足を止めた。

 二階建てのちいさなアパート。元は白色だったらしい壁も、雨風にさらされすっかり黒ずんでいる。壁に『時津荘』と書かれているのが読み取れた。駐車場はなく、一階の外付け階段の傍に、自転車が何台か並んでいる。

 アパート名を確認したのち、外付け階段をのぼって二階へ向かう。

 二階の階段から一番離れた部屋。そこが依頼人の住居だった。どの部屋にも表札は出ておらず、他の部屋に人が住んでいるのかどうか、知ることはできなかった。

 チャイムを押す。ドアの向こうから微かにピンポン、ピンポンと小さな電子音が聞こえてきた。

「はい」

 インターホンの類はないらしく、扉の隙間から若い女性が顔を覗かせた。チェーンロックはかかったままだ。

 二重でアーモンド形の目。長い睫毛に形の良い鼻。毛糸をほぐしたような柔らかそうな髪。化粧はやや濃かったが、美人と言って差し支えのない容貌だった。

「ご依頼いただいておりました、タオです」

「あ、はい」

 女性はほっとしたようにチェーンを外した。

「どうぞ」

 手で扉を押さえ、タオに中に入るよう促す。

「どうも。あなたが、伊藤美代子さんですね? ご依頼くださった」

「ええ。そうです」

彼女はタオの恰好に疑問を抱いている様子はなかった。自身は白いノースリーブのワンピースだから、季節感が狂っているわけでもないだろう。ただ、タオの服装になど、興味がないだけのようだった。

室内は薄暗かった。見れば、窓にかけられたカーテンが閉ざされたままである。ベランダの方も、カーテンは閉じたままだった。

「両方、問題があるんですか?」

 伊藤はやや青ざめた顔で頷くと、

「はい。どっちから覗き込んでいるか、わからないんです。片方だけ開けておくと、そちらからこちらを見てくるので。両方閉じておくほか、ないんです」

「少し、開けさせていただきますよ」

 タオは断りを入れてから、窓のカーテンを勢いよく引いた。外の光が入り、室内がぱっと明るくなる。

 窓の外には、一人の少女の顔があった。

 年のころは十七、八といったところだろうか。黒い髪をおさげにしている。前髪は眉の上で真っ直ぐに切りそろえられていた。胡乱気な細い眼、存在感のない鼻に生気を感じさせない唇。その顔からは、なんの感情も読み取ることはできなかった。

「あのう、そろそろ閉じていただけませんか? 気持ち悪くて」

 振り返ると、伊藤は窓から顔を背け、壁にもたれかかっていた。

「はい」

 もう一度カーテンを閉ざすと、伊藤は安心したように、ふう、とため息を吐いた。

 それから、やっと気づいたように部屋の電気を点ける。

「すみません、暗かったですね。私、もう慣れちゃって……」

「あれが出るようになって、長いんですか?」

「ええ。もう半年近く……ここのアパートに引っ越してきたのは、三か月ほど前のことなんですけど。前のアパートに住んでいたころから、出るようになって。もう怖くて怖くて、部屋を変えれば出ないかと思ったんですけど、こっちに引っ越して来てからもああやって部屋の中を覗いてくるんです」

「なるほどね」

「消せますか、あれ?」

「消せないことはありません。それより」

 タオはそこで言葉を切ると、部屋の隅に設けられた台所を指さした。

「料理中だったんじゃないんですか? 話はあれを済ませてからでも結構ですよ。私もちょっと考えたいので」

 タオのいうとおり、台所には半分ほど刻まれたキャベツが乗ったまな板が放置されていた。

「ええ。じゃあ、失礼して」

 伊藤は台所に立つと、左手に包丁を持ってキャベツを刻み始めた。ザクザクと小気味良い音に合わせて腕が動く。

 その様子を見ながら、タオはふと思い出したように呟いた。

「キャベツも時間も刻むものですね」

「え?」

「前に、そんな詩を読んだのです。それを読んで、キャベツも時間も刻むものだと、なるほどと、感心したんですよ、僕は。良い言葉の使い方だと」

「はあ」

「キャベツを刻むのを失敗すると、まあ切り方の汚いキャベツができるだけですが、時間を刻むのを失敗すると実際のところどうなるんでしょう。ねえ?」

「……さあ」

 伊藤にはタオの意図するところが、理解できないらしかった。

「そこのベランダの方カーテン、ちょっと捲らせていただきますよ。こちらでの様子も、一応確認しておきたいのでね」

「……どうぞ」

 全開にしては悪いと思い、タオはそっとカーテンの端をめくり、その隙間に頭を突っ込んだ。

 路地に面した小さなベランダ。洗濯物などはなく、ただそこには少女が一人、佇んでいた。

 先ほど、窓から部屋を見ていた少女だ。その目は真っ直ぐ、部屋の方に向いている。カーテン越しに、室内を透視しているようだった。

「移動、ご苦労さん」

 試しにガラスを軽くたたいてみたが、少女がタオの方に顔を向ける気配はない。気づいていないのか、それとも単純に興味がないだけなのか。

 少女は濃紺のセーラー服を着ていた。裾はひざ下まで。靴は運動靴。泥や土で汚れているだけでなく、つま先などは今にも穴が開いてしまいそうなほどにくたびれていた。

「あまりじろじろ見るのも悪いな。女の子だものな」

 そう言ってタオは、またカーテンを閉じ、伊藤に向き直った。伊藤はすでにキャベツを切り終え、ちょうど包丁とまな板を片付けるところだった。

「いたでしょう、ベランダにも」

「いましたね」

「お願い、消してもらえませんか。あのままじゃ、ベランダに洗濯ものも干せないし、引っ越したってついてくるだろうし……」

「消す、消さないの前に、もう少しお話をお聞かせ願えませんか。情報不足のままじゃ、僕も動きようがないのでね。彼女に心当たりは?」

「……あります……」

 伊藤はなにか、やましいことでもあるかのように俯いてしまった。しかし、すぐに顔をあげると、

「彼女、私の同級生だったんです。小学校から、高校まで、ずっと同じ学校でした。高校では三年間、同じクラスでした」

「ほう」

 意外な話が飛び出してきたな、と思いつつ、タオは話を続けるよう促す。

「では、彼女の名前はご存知なんですね?」

「ええ。村崎明乃、って子です……ええと、ほら」

 伊藤は押入れから一冊のアルバムを取り出すと、あるページを開いてみせた。そこには、クラス別の集合写真が掲載されていた。

「三年三組の……ほら、この子です」

 最後列の端っこに、村崎明乃は立っていた。髪型といい、顔だちといい、そして、その感情の読み取れない無表情といい、確かに窓の外に立っているあの少女に間違いなかった。

「では、あなたは?」

「私は、これです」

 伊藤は最前列のほぼ中央、教師の隣に座っていた。髪型も違うし、今ほど派手な化粧もしていないが、それ以外は今、目の前にいる女性とほぼ変わりない風貌の少女が、そこには写っていた。口角をあげ、柔和な表情を作っている。

「これ、卒業アルバムですか?」

「はい。高校の。立派でしょう? アルバム実行委員会っていうのがあって、その子たちが中心になってデザインやら、写真の掲載の仕方やらを考えたんです。ほら、表紙に名前が刺繍してあるでしょう? これも、実行委員会の発案なんですよ」

 アルバムの表紙には金色の糸で〈伊藤美代子〉と刺繍が施されていた。

「これ、全員に?」

「ああ、いえ。事前に申し込みをした人だけです。オプションで。でも、ほとんどの人が申し込んでいましたけどね」

「ちなみに、村崎さんは申し込まれたんでしょうか?」

 すると、伊藤は小さく頭を振ってみせた。

「申し込みませんでした。アルバム自体。お金がないからって」

「失礼ですが、村崎さんのご家庭は経済状況があまり良くなかったんですね?」

「ええ。両親がはやくに離婚して、いわゆるシングルマザーだったみたいです。母親の職業の安定しなくて、いつもお金に困っていました」

 タオは先ほど見た、くたびれた運動靴を思い出す。靴を買い替える余裕もなかった、ということか。

「それがコンプレックスだったんでしょうね、明乃は。まわりが持っているものを自分は持っていない。ランドセルや体操服は、近所の小学校を卒業した子の家に頼んで譲ってもらったものばかりだし、文房具だって安物ばかり。それを周りの子もわかっていましたから、明乃が見栄を張ってちょっと高い鉛筆を持ってきたときなんかは、さんざんバカにされていました。貧乏人が贅沢するんじゃないって。

中学校に入ってからも、高校に入ってからもそう。明乃なりの楽しみを求めていたんでしょう。贅沢なお金の使い方を求めてたのかもしれない。高校生になって、バイトをはじめて、一番に買ったものがアーティストのアルバムですよ。それも、デビュー曲から最新曲まで入った、すごく高いやつ。五千円くらいするやつ。それをね、買ったところを同じクラスの……中学校も同じクラスになったことのある男子生徒に見られちゃって。噂になっちゃったんです。『あいつ、貧乏人のくせに、こんなに高いもの買ってたぞ』って。それから、いじめられるようになったんです。もともと、暗い性格だったから、反論することもできなかった」

「ふだん、貧しい暮らしをしているからといって、高い買い物をしてはいけないなんて決まり、どこにもないのに面倒ですね、そういう人間は」

 経済的に恵まれていない人間は、周囲から常に貧しい生活を求められる。それは、質素であり、常に倹約をし、ただ生きることのみを強要されるものだった。質素倹約ばかりを強いられ、心身ともに傷だらけになってしまった人間を、タオはこれまでに何人も見てきた。

「そういうものだから、仕方がないんです。貧乏っていうのは、そういうことです」

「それはくだらない思い込みというものです。それよりも、伊藤さん。そのアルバム、見せてもらってもいいですか?」

「どうぞ」

 伊藤からアルバムを受け取ると、タオはゆっくりページをめくっていった。

 生徒や教師によって撮られたものらしいスナップ写真が、行事ごとに分類されている。入学式、運動会、文化祭、修学旅行……どのページにも、最低一枚は伊藤の写った写真が掲載されていた。一方、村崎の方は集合写真を除くと、その姿はほとんどどこにも見当たらなかった。体育祭も文化祭も、集合写真の端の方に申し訳なさそうに立っている。修学旅行のページでは、集合写真にすら、その姿はなかった。

 学校行事のほかにも「日常のようす」と題された、その名の通り授業中のようすや、休み時間になにげなく撮影された写真を掲載したページもあった。

ずいぶんたくさんの写真を集めたものだと感心しつつ、タオはそろそろ写真を見ていくことに飽き始めてもいた。伊藤と村崎を除けば、あとは知らない高校生ばかりなのだ。彼、彼女らが全員、自分の顧客になるのなら話は別だが、そうでなければこんなもの見ていてもちっとも楽しくない。

 村崎明乃は集合写真以外にはまったく写っていないし、もうやめてしまおうか、と思ったところでタオははたと手を止めた。「調理実習」と書かれたポップな字のまわりに配置された、数枚の写真。その一つに、村崎明乃の姿があった。

 生徒数人でなにかを調理している最中らしく、そこに写っている五人の少年少女は、皆そろって三角巾とエプロンを身に着けている。他の四人がカメラに向かってピースサインを送る中、ただ表情のない顏をカメラの方へ向けている。その左手に包丁が握られていることもあって、B級ホラーの亡霊のようにも見える、とタオは思った。……むろん、口には出さなかったが。

 伊藤美代子も、同じ写真の中に収まっていた。満面の笑みを浮かべ、左手でピースサインを作っている。下の方は見切れてしまってわからないが、どうやら右手には菜箸を持っているらしかった。

 村崎に比べ、伊藤が写っている写真は多かった。体育祭で踊っている写真、文化祭の演劇の練習をしているらしい写真。書道の授業中に撮った写真では、右手に筆を持ち、左手に墨汁のボトルを持ってカメラに向かって微笑みかけていた。

 個人個人でこんなに差があって良いものなのか、全員同じ値段を払うのだから、同じ枚数だけ載せればいいのに、と余計なことを考えてしまう。

 アルバムの最後の数ページは寄せ書きのためのスペースだった。どのページもメッセージで埋め尽くされている。その数と文面から、伊藤が皆から慕われていたらしいことは、容易に想像できた。

 村崎も何か書いているだろうかと探してみると、何度も寄せ書きページをお往復した後で、最初のページの片隅に「ありがとう あきの」と書かれているのを見つけることができた。まるで周囲の目を気にするかのように、隠れるかのように、隅の方に書かれた小さな文字。ブルーのペンで横書きされたその文字は、上から何かで擦ったような掠れたあとが残っていた。タオはそこから目を逸らすことが出来なかった。

「村崎さんは写真が嫌いだったんでしょうか?」

「そうですね。嫌いでした。写真は残りますから」

 今までで一番きっぱりとした言い方だった。

 寄せ書きの次には、アルバムを制作した会社がサービスでつけたものらしい、その年に起きた主な出来事の写真と解説が〈付録〉としてついていた。

 タオがその〈付録〉の最後のページをめくると、その間から何かがはらりと床に落ちた。拾い上げてみると、それは一葉の写真だった。

〈入学式〉と書かれた看板を挟んで、二人の少女が立っている。一人は伊藤美代子、そしてもう一人は村崎明乃だった。二人とも笑顔を浮かべ、揃ってピースサインをカメラの方に向けている。

「ねえ、タオさん、それなんです?」

 伊藤の声には焦りが滲み出ていた。タオは伊藤に写真を見せようとはせず、

「このアルバム、開いたのはいつぶりのことですか?」

「……卒業式のあと……ずっと仕舞いこんだままでした。そのう、なかなか暇がなくて」

 そして伊藤は再び「それ、なんなんですか?」とにじり寄ってきた。タオは黙って彼女に写真を渡す。

 写真を見た伊藤の反応は、とても奇妙なものだった。

 最初は驚いたように目を見開き、穴が開くほど写真を見つめ続けていたが、やがて、今度は満面の笑みになるとケタケタと笑い出したのである。

「いやだ、こんな、こんな……こんなところに挟んでいたのね、私ったら。ふふ、私ったら」

「伊藤さん、それ、伊藤さんと村崎さんですよね?」

 タオの問いかけに伊藤は笑うばかり。

「ええ。そうにしか見えないでしょう?」

 これ以上、写真について訊ねてもどうしようもないと判断し、タオはアルバムを伊藤に差し出した。

「これ、ありがとうございます。もう少し、お話を伺いたいのですが、よろしいですか?」

 そこでやっと、伊藤は笑うのをやめた。

「村崎さんがどんな子だったか、教えていただきたい。小学校から高校までずっと同じだったんでしょう?」

「そうですけど……親友だったわけでもありませんし」

「本当に?」

 タオの物言いが、伊藤には気に入らなかったらしい。眉を少し釣り上げると、

「なんですか? 私が彼女と親友だったから、今、こんな目にあってるんだとでもいいたいんですか?」

「いいえ。違いますよ。……いや、あるいはそうかもしれないな。いえ、お気になさらず。念を押すのがクセになってしまっていただけです。あなたから見て、どんな子だったか、思うままに話していただければいいのです」

「はあ。家が母子家庭で、貧乏で、それがコンプレックスだった……みたいです。誰かを家に招こうとはしませんでしたし、誰かの家に招かれるのもあまり好きじゃなかったみたいです。人の家に行って、自分の家にはないものを見せつけられるのが、苦痛だったんでしょう。彼女の住んでいたアパートはネズミが出るし、壁にひびはいっているし、天井なんて染みだらけだったから、誰かを招き入れたりなんてしたら、それこそ自尊心なんてめちゃくちゃに砕け散っていたでしょうけど」

「伊藤さんも招かれなかったんですか?」

「はい」

 タオは「続けて」と先を促した。

「小学校に入ったばかりのとき、彼女とは同じクラスで席が隣だったんです。だから、他の子よりいくらか仲良くなったんですけど。高校に入ってからは、距離を取るようになってしまって。いじめられっ子の近くって、寄りにくいでしょう。次は自分がターゲットになってしまいそうで。だから、高校の三年間は疎遠でした」

 そこで伊藤は口を閉ざしてしまった。

「それだけ?」

「はい」

「今、村崎さんがどこで何をされているか、ご存じないんですか?」

「……亡くなりました」

「どうして」

 伊藤は眉間に皺を寄せ、タオを睨みつけた。

「どうして? 今、そんなこと、関係あるんですか?」

「もちろん。なにせ、あそこに立っているご本人のことですから。できるかぎり多くのことを知っておく必要があります」

「……交通事故です。車に撥ねられて、あっさり。卒業式の翌日のことでした」

「アルバムが生徒の手に渡ったのは?」

「卒業式当日ですけど、それは」

「関係、オオアリです」

 タオは伊藤の言葉を遮っていった。

「ところで、伊藤さん。窓の外に立っている彼女、なんだと思います?」

「なにって……村崎明乃、でしょう?」

「村崎さんの、なに?」

「……亡霊、とか」

「違いますね」

 タオは少し迷った後、窓の方を指さして(今、どちらに村崎がいるか、わからなかったのだ)、

「彼女は、あなたですよ」

「私? なにそれ、めちゃくちゃじゃないですか、私は」

「嘘はもう終わりにしましょう。僕も時間外労働はごめんなんですよ、村崎明乃さん」

「私は伊藤美代子です」

 間髪を入れず、言葉が返ってきた。

「いいえ、あなたは村崎明乃さんだ」

「私は、伊藤美代子、ですっ!」

 反論する声が一オクターブ高くなる。その目は大きく見開かれ、小刻みに震えていた。

「頑固ですね。そうおっしゃるのなら、もう少し上手に嘘を吐くことです。あなた、村崎さんの家に招かれたことがないとおっしゃいましたよね?」

「ええ、そうですとも」

「じゃあ、なんで、村崎さんの家の様子をご存知なのでしょう? 壁にひびが入ってるだの、ネズミが出るだの。まさか、村崎さんから聞いた、なんておっしゃいませんよね? 家を見られるのが嫌で人を招かなかったのに、その一方で自分の家にはネズミが出るし、壁にはひびが入っているんだ、などと話すとは考えられません」

 伊藤は何も答えなかった。タオは気にせず、話し続ける。

「それに、あなた、左利きでしたね? 包丁を左手で持って、キャベツを切ってらっしゃった。一方、アルバムの中の伊藤さんはどうでしょう? 右手で菜箸を持ち、右手で筆を持っていた。嘘だと思うのなら、そこのアルバムで確認なさい。あなたは左利き、アルバムの中の伊藤さんは右利き。おかしいとは思いませんか?」

「……両利きなのよ」

「なるほど。右手でキャベツを刻んでください、といったらやってくださいますか? 今から右手で字を書け、といわれたら?」

「そんなことする義理はありません。私は、そこにいる、あの子を消してくれと頼んだんです! そんなことをいわれるために、あなたを呼んだんじゃない! 除霊がお仕事なんでしょう、はやくしてください」

 それに対し、タオは無表情のまま、首を傾げてみせた。なにをいわれているのか、さっぱり理解できない、というふうに。

「確かに、僕は〈除霊〉も一つ、仕事として引き受けていますがね。あなた、自分で自分がなにをいっているのか、わかっているんですか? 自分を消せといっていることに、気づかないんですか?」

「え?」

「そりゃあ、そうでしょう。あなたは村崎明乃さん。外に立っているのも、村崎明乃さん。なら、外にいるあなたを消せば、ここにいるあなたも消えるのは、当然だと思うのですが」

 伊藤はほうけたように口をOの字に開いたまま、言葉を失ってしまったようだった。

 その様子を見て、タオはやれやれと肩を竦める。

「一からご説明する必要がありまそうですね。いいですか? あそこに立っているのは、あなた。あなたの過去の姿なんです。あなたは村崎明乃だった。なのに、なにを思われたのかは知りませんが、伊藤美代子として、今は生活していらっしゃる。そして、さも、生まれてから今まで、ずっと〈伊藤美代子〉だったかのような態度をとっている。あなたは、〈村崎明乃〉を否定した。無視した。あそこに立っているのは、その結果」

「私、私は……村崎明乃じゃない……」

「まだいいますか。先ほど、アルバムから写真を取り出したときのあなたの態度。あれも、あなたが伊藤美代子さんでないのなら、腑に落ちるんですよ。なぜ、自分自身が挟んだはずの写真をいとも簡単に忘れてしまっていたのでしょう。忘れていたとしても、あんなに驚く理由が見当たりません。意外な場所ではないのですから。けど、あなたが伊藤美代子さんじゃないとしたら? あなたは卒業式以降、アルバムを見ていないといった。本当はアルバムなんて、今日の今日まで開いたことがなかったんじゃないんですか? だから、あんなものが挟まっているなんて、思いもしなかった。

 あなたは、恐らく、この僕に『目の前にいる女性は、伊藤美代子である』と信じさせるために、このアルバムを見せたのでしょう。ねえ、村崎さん」

 タオは彼女の顔を覗き込み、いった。

「あれが死んだものかどうかなんて、すぐにわかるんですよ、僕には。あれとあなたがイコールであることも、すぐにわかった。そういう人間なんです、僕は。けど、ひとつわからないことがある。あなたはなぜ、伊藤美代子さんになりすましているんです?」

「……なりすまし? そんなふうにいわれたら、まるで私、悪いことしているみたいじゃない」

 その声は老人のように掠れていた。顔も一気に十ほど、齢をとったように見えた。

「私は美代子なのよ……私は美代子のために生きるの。私は美代子を生かすために、生きるの……頼まれたんだから」

「誰に?」

「美代子のおかあさんに、よ。美代子のぶんまで生きてって」

 やはり。タオは口には出さなかったが、納得していた。本物の伊藤美代子は、亡くなっていた。恐らく、交通事故に巻き込まれて。

「このアルバムも、伊藤さんのお母さんに?」

「ええ。私がアルバムを買えなかったこと、知ってたみたい。大切にしてって。だから、私、美代子のために生きようと思った。美代子には生きて欲しかった。美代子はとても良い子だった。汚くて卑屈な私のことも、バカにしなかった。一緒に遊ぼうって、勉強しようって……その鉛筆、可愛いねって……それがどれだけ嬉しかったかわかる? 美代子は生きるべき人なの。生かすべきだと思った。でも、私が持ってる身体は一つ。美代子が生きるためには、身体が必要でしょう? だから、私が伊藤美代子になることにしたの。村崎明乃なんかより、伊藤美代子の方がずっとずっと、大切だもの、価値があるもの。お金を貯めて整形して、ねえ、私、もうすっかり伊藤美代子でしょう?」

 そういって朗らかに笑う彼女の笑顔は、アルバムの伊藤美代子と瓜二つ。けれど、まったくの別物だった。

「村崎明乃の人生は、そんなに価値のないものでしたか?」

「ええ。汚らしくて、貧乏のくせに生意気で、皆から嫌われて。あんなもの、価値なんてなかった」

 やはり、この人は、時間の刻み方を間違えたのだ。タオはそう思わずにはいられなかった。村崎明乃は、村崎明乃の時間を刻むべきだった。なのに、彼女はそれを無理やり止めてまで、一度は止まってしまった伊藤美代子の時間を動かし続けようとした。

 捻じれている。

「僕には、村崎明乃さんの人生にも、価値はあったと思いますけどね」

「そんなことない。どうせ、あのまま村崎明乃の人生を続けていたって、邪魔者扱いされるだけだった。人から好かれることなんてなかった」

「でも、伊藤美代子さんはあなたを好いていた、きっと。じゃないと、あんな風に写真をアルバムに挟んだりしませんから」

 あなたは、伊藤さんが好いていたものを、無理やり消したんだ。タオはそんな言葉を、すんでのところで飲み込んだ。それが、相手をどれだけ傷つけるか、わかっていたから。

 村崎はアルバムを胸に抱くと、「だといいけど」と呟いた。

「では、僕はこれで失礼します。あれを消すわけには、いかないのでね。お代はいりません。さようなら」

 タオはそういい残すと、アルバムを胸に抱いてうつむいたままの村崎明乃を残し、部屋をでた。相手の耳に届いているかどうかはわからなかったが、最後にこういわずにはいられなかった。

「良い、人生を」