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原稿

創作の思い出

また出てきたぞ、原稿が。

……これ、懸賞に応募した記憶がある。

ダメだったやつだ。

一応、完結はしている(未完のやつは応募できないよね)

 

人形喫茶

 

 祖母の葬式に出席してから、半年が経った。

 父方の祖母で、祖母とは言っても離れて住んでいたため彼女に対して、これといった情も抱いてはおらず、そのせいで祖母の死は僕にとってただの一人のおばあさんの死でしかなかった。

 葬式からの帰り道、母は車の中で、

「お義母さん、綺麗だったわねえ。ホントの齢より、十ほど若く見えたわ。そのう、死に顔も。健康とか、美容とか、気を付けていたものね」

 と言った。

 ハンドルを握る父は何も言わず、ただ、欠伸を一つしただけだった。そういえば父は葬式の最中、船を漕いでいたっけ。残業続きで寝不足なのだ、きっと。

 僕は僕で今日、出棺間際に見た棺桶の中身を思い出していた。

 そこにあったのは、顔にたくさんの皺を刻み込んだ一人の老婆だった。

 

***

 

 リビングのテーブルの上は、化粧品や健康食品のチラシでいっぱいだった。〈肌年齢マイナス十五歳!〉〈まるで二十代のような若々しさを貴女に〉〈いつまでも若くいたいアナタのためのスペシャルサプリ!〉などなど派手なフォントのうたい文句とともに、どのチラシにもニッコリと微笑む女性の写真が印刷されている。

 いくつかの美容液やサプリメントには、油性の赤ペンで大きく丸がつけられていた。きっと、母がつけたのだろう。

 僕はそれらをテーブルの端によけると、空いたスペースに今日、大学で貰って来た就職活動関係の資料を並べ始めた。

 毎年十月に行われる、三年生を対象にした就職活動説明会。受付で渡されたA4サイズの分厚い茶封筒の中身は、これまでの卒業生の就職先とか、中小企業の社員募集の広告くらいのもので特別目をひくものはなかった。

 今日の説明会では「選ばなければ仕事はいくらだってある、仕事をえり好みしすぎるからいけないのだ」というようなことを言われた。だから、興味のない業界だからと敬遠せずに、とにかくエントリーしなさい、とのこと。要は下手な鉄砲もなんとやら、と言いたいのだろう。

 世の中には「海外で活躍したい」とか「人の役に立ちたい」なんていう実に立派な志をもった同世代の人間も大勢いるらしく、そういう人間は自分の理想に見合った職を見つけるために仕事をえり好みするのだという。

 しかし、僕はこれまでの二十一年近い人生を、時の流れにただ流されるようにして生きて来た。これからもそうだろう。生きているうちに社会貢献しようとか、一花咲かせてやりたいとは思わない。ただ、目の前にある時間を消費して、消費しつくしたら棺桶に入って燃やされるだけ。

 積極的に生の喜びを享受しようとは思わないけど、かといってわざわざ自殺するほどでもないので、適当に生きている。そんな無気力な生き方を僕はしている。

 特別やりたい仕事なんてものもないけれど、システムエンジニアのような高い専門性を求められる仕事や、介護のような体力の要る仕事はしたくないし、とりあえず適当に一般事務の仕事を探して、手当たり次第にエントリーすればいいかと結論付け、僕は就活関係の資料を茶封筒の中に仕舞った。チラシを元通りの位置に戻しておく。

「あら、あんた、そんなもの見て面白いの?」

 そのとき、ちょうどリビングに戻って来た母は、どうやら僕が化粧品やサプリメントのチラシに見入っていると勘違いしたらしい。

「ううん。ちょっとね」

 僕は茶封筒の中身に話題を振られないよう注意しながら、言葉を濁した。就活のことに話題が及んだら、どんなことを言われるか。一時間の説教は覚悟しないといけなくなる。男なんだから四十数年間、安定して働ける職場を見つけなさい、から始まり、就活に失敗した従兄、一流企業に就職しながらも冒険家になると言って退職し、その後行方不明になった母の従弟の話などが延々と連なって来る。面倒ったら、ありゃしない。

 そこで僕は茶封筒を二つ折りにすると、それをさりげなく体の陰に隠すようにして立ち上がった。

「僕、ちょっと出かけてくるよ」

「大学?」

「え? ……ううん、授業はないんだ、今日は。バイトはあるけど。本屋にでも行こうかと思ってさ」

 今日は月曜日。大学自体はもちろん休みではない。ただ単に、僕が月曜日には何も授業を登録していないというだけだ。週に一日、授業がない日を作っても、卒業必要単位数は簡単にクリアできるのだから、大学なんて気楽なものだ。

 週に二、三日、学習塾で事務のアルバイトをしており、今日がその日ではあるけれど、それも午後四時から午後九時までと短時間で大した労働ではない。コピー機とパソコンの基本操作さえできれば、誰でも出来るような仕事だ。

 時計を見ると午後一時を少し過ぎたところ。バイトまでは、まだ時間があった。

 じゃあ、行ってきます、と出て行こうとする僕を母は「ちょっと、待って」と引き留めた。

「本屋さんのそばに、ポストってあったわよね、確か」

「あったと思うけど」

「じゃあ、これ出してきてよ……ちょっと、待ってて」

 そう言うと、母はわたわたとペンとハサミを持ってきた。

 何をするつもりなのかと思ったら、先ほどの化粧品や健康食品のチラシからハガキ部分を切り取り始めた。どうやら、商品サンプルの申し込みをするつもりらしい。最近、母はそういう類のサンプル申し込みにハマっているようなのだ。おかげで、洗面所や風呂場は、母の得体のしれぬ〈ヒアルロン酸美容液〉や〈ビタミンC配合化粧水〉や〈美容成分配合洗顔料〉で溢れかえっている。

 母は広告から切り取ったハガキを七枚ほど、僕に差し出してきた。

「これ、悪いけど出してきてよ」

「わかった」

 拒否する理由もないので、僕は素直にそれを受け取る。一番上にあったのは〈二十代のような若々しさを取り戻しましょう〉といううたい文句付きの、美容液だった。

 母はもう五十代だ。いまさら、息子の僕と同世代にまで若返って、なにかメリットってあるのだろうか。

 

***

 

 母から預かったハガキを無事ポストへ投函したはいいものの、肝心の本屋はあろうことか休店日だった。扉部分に〈店内リフォームのため、しばらく休ませていただきます〉という貼り紙がしてある。

 さあ、どうしたものか。家から書店までが、歩いて十分。書店からバイト先までは歩いて十五分。そして、家からバイト先までが歩いて二十五分。つまりは、書店は家とバイト先のほぼ中間地点に位置することになる。

 一度、家に戻っても良かったが、たしかバイト先の近くにも一軒、書店があったことを思い出し、そこで時間を潰すことに決めた。書店とは言っても個人経営の古本屋なので、長居をするには向いていないかもしれないが。

 それに一度家に戻ってしまうと、バイトのために外に出るのが、必要以上に億劫に感じられてしまいそうだった。

 まあ、書店で時間を潰すのは苦痛じゃない。むしろ、好きな方だ。読書は僕の数少ない趣味だった。本を買う金を得るために、バイトを始めたくらいなのだから。

 本を読んでいる間、僕は傍観者でいられる。なんの責任も持たなくても良いし、なにも行動を起こす必要はない。ただ、ただ、眺めているだけ。時間の流れから一歩下がったところにいる感覚が、僕には心地よかった。

 つい先週が給料日だったから、懐はそこそこ温かい。一冊くらい、何か買ってもいいかもしれないな、クリスティーの『カーテン』なんてどうだろう、置いてあるかしらん、いやいや、それとも綾辻行人の館ものがあったら、それにしようか……先輩がオススメだと言っていたのは何だっけ、人形? 時計?……とりとめのないことを考えながら、歩を進めていく。

 書店からバイト先に行くには、住宅街の中を通り抜けていく必要があった。空き家はほとんどないはずだが、平日の昼間と言うこともあるのだろう、住宅街はしんと静まり返っていて、人影のひとつも見られなかった。

 速足で歩いていた僕は、とある建物の前でふと、足を止めた。

 見慣れない建物が、そこにはあった。

 周りの住宅より、一回り小さいレンガ造りの建物。くすんだ赤色のレンガでできたその家は、他の家の壁がどれもパステルカラーで彩られているせいで余計に目についた。

――こんな建物、あっただろうか?

 ここいらの家はいわゆる建売で、同時期に建てられたのもあってどれも似たり寄ったりのデザインだ。バイトの日は必ず通っている道だ。こんなレンガ造りの家があったら、もっと早くに気づいていてもいいはずなのに。

 赤銅色の扉には、木の札がかかっている。

 

〈Café Puppe〉

 

 カフェ、は読める。後ろの単語は、何なのだろう? 見覚えのない単語だった。

 扉には木の札が二枚かかっていて、もう一枚は〈Café Puppe〉のすぐ下にかかっていた。

 

〈Open〉

 

 これくらいはわかる。つまりは、営業中、ということか。

 入ってみよう。

 そう思ったのに、特別な理由はなかった。思いつき。気まぐれ。好奇心。そんなところだ。

 メニューが外に置いてないのは不親切だが、こんな中流階級の家庭ばかりの住宅街で、何千円とする茶を出すはずがない。せいぜい、四、五百円といったところだろうし、懐は温かい。たまには、立ち読みや本棚の物色ではなく、喫茶店で時間を潰すというのも悪くはないだろう。

 躊躇うことなく、僕は店の扉を開けた。

 ちりん、ちりん、と頭上で鈴の音。見上げると、扉の内側に銀色の鈴がぶら下がっていた。音で来客がわかるようにするためだろう。

 ドアの正面はレジで、そこには一人の男が座っていた。読書中だったらしく、手には薄い文庫本が一冊。

 彼は僕に気づくと、本をレジの陰に仕舞い満面の笑みで立ち上がった。

「いらっしゃいませ!」

 その男は、少々変わった格好をしていた。前髪を残して後ろに流した髪は、近くから見なくてもワックスでがちがちに固めてあることがわかった。白いシャツに、ブルーのベスト。ベストはラメかなにかが塗してあるらしく、店の照明を受けてギラギラと光っている。黒いスラックスに革靴。香水をつけているのか、甘ったるい香りが漂っている。彫りが深く整った容貌もあいまって、喫茶店の店員というよりは、アイドル歌手といったほうがしっくりきそうだった。

「一名様?」

「はあ、はい、そうです」

 やや気おされながら頷くと、窓際の席に案内された。僕以外に客はいなかった。

「さあ、どうぞ。メニューはこちらになります。お水、いれてきますね、ちょっとお待ちください」

 一息にそう言うと男は店の奥、恐らく厨房の方へ姿を消した。

 メニューはA3サイズの厚紙を二つ折りにしたものだった。ラミネート加工が施されている。表紙にはでかでかと〈Café Puppe MENU〉と書かれていた。

 中を開くと、まず最初にあるのは〈DRINK〉……なのだが、このカテゴリにはたった一つ〈紅茶〉だけ。一応紅茶の中でもホットとアイス、それにストレート、レモン、ミルクは選べるようだけど、普通はもっと他にも飲み物を用意しているものではないのか。

 たった一つの飲み物がこの店の目玉商品らしく、〈紅茶〉の文字の下には、こんな説明書きが添えられていた。

〈当店自慢のオリジナルブレンド。若々しくいたいあなたには、是非飲んでいただきたい一品となっております。一杯飲むだけでも、肌の張り、髪の艶、身体中の至るところに効果が表れることでしょう。継続してお飲みいただくことにより、どんな方でも簡単に若いままのご自分を手に入れていただくことができます。アンチエイジングに興味のない方にももちろん、楽しんでいただける一品です〉

 母が聞いたら大喜びで注文しそうだ。果たして、本当に効果があるかどうかはさておき。

 他には、軽食類やデザートが並んでいた。サンドイッチやオムライスなど喫茶店の定番料理ばかりで、紅茶のように眉唾ものの説明が添えられているようなこともなかった。

 値段設定は紅茶が一杯四百円。ごく平均的な値段といえる。

「お決まりですか?」

 顔をあげると、先ほどの男が立っていた。手には、水の入ったコップを持っている。

「ええと、紅茶を……アイスのミルクで、ひとつ」

「紅茶のアイス、ミルクをひとつ、ね。はい」

 男は僕の注文を復唱すると、水のコップを置いて厨房の方へ引き返して行った。

 メニューを閉じ、それを脇に押しやる。本も何も持ってこなかった僕は、ただぼうっと紅茶が運ばれてくるのを待たなければならなかった。音楽のひとつも流れていない店内は、とても静かで、自分の左手首に嵌めている腕時計の秒針の音だけが規則的に耳に響いた。

「ねえねえ、紅茶、頼んだ?」

 その愛らしい声は足元から聞こえた。

 いいや、足元、だと低すぎる。腰のあたり、のほうが正しいか。

 いつの間に来たのやら、小さな女の子が傍に立って僕の顔を見上げていた。

「ねえねえ、紅茶、頼んだ?」

 女の子は目を真ん丸く見開いて、同じ質問を繰り返してきた。

「うん、頼んだよ」

 五、六歳くらいだろうか。毛糸をほぐしたような柔らかそうな黒髪に、白い肌。瞳は黒真珠のように真っ黒で、頬は暑いわけでもないだろうに桃色に染まっていた。身につけている真っ赤なワンピースはフリルやリボンがたっぷりと飾られていて、裾はふわりと広がっていて、そう、ワンピースというよりドレスだった。

 僕が頷くと、彼女はにいっと満足そうに笑ってみせた。

「やったあ!」

 どうして「やったあ!」なのだろう? まさか、この子が淹れたなんてことはないだろうし、なぜこんなに嬉しそうにするんだろう、と内心首を傾げていると。

「だめじゃないか、勝手にお店に出てきちゃあ」

 男がお盆を持って厨房から出て来た。お盆には、ミルクティーがたっぷり入ったグラスが載っている。

「お待たせしました、紅茶のアイスのミルク、つまりは、アイスミルクティーでございます」

 慣れた手つきでコースターの上にグラスを置く。

 女の子はグラスが置かれるやいなや、僕の膝を手で叩きながら、

「ほらー、はやく飲んでー!」

 やけに急かしてくる。

 男はお盆を脇に挟むと、女の子を抱き上げた。

「お客さんに失礼なこと、しちゃあダメだろう? ……いやあ、すみません。なにか、失礼なこと言いませんでしたか? おかしなことを口走ったかもしれませんが、どうかお気になさらず」

「いいえ、大丈夫ですよ」

「そうですか」

 男は安心したように目を細めた。

 女の子は、今度は男の頭を二、三度叩くと、

「ねえねえ、新しいお人形、まだ?」

「まだだよ。もうちょっとしたら、手に入るから、そんな話をお客さんの前でしない。わかった?」

「はあい」

「わかったら、お部屋に戻ってなさい」

「やーだ! スタンプ、捺すんだもん」

「スタンプ? スタンプって、なんです?」

 何の気はなしに訊ねると、男は「いやあ」と苦笑しながら言った。

「うち、ポイントカードっていうのがあるんですけどね。いまどき、大概の店にあるんでしょうが。その、一ポイント貯まるごとにスタンプを捺させていただいているんです。この子が言っているのは、それのことですよ」

 女の子は男の腕の中で「スタンプ、スタンプ」とはしゃいでいる。

「娘さんですか、その子?」

「いやいや、違います。親戚の子、のようなものです」

「へえ」

 親戚の子のようなもの、とはどういうことだろう? 本当の親戚ではないということか? この店に来てまだ三十分と経っていないというのに、僕の頭の中はクエスチョン・マークでいっぱいになってしまった。

「さあさ、ぬるくならないうちに飲んでみてください。紅茶を淹れる腕前は、結構自信があるんですよ」

「はやく、はやく!」

 二人に急かされるようにして、僕はストローを口にくわえた。

 口の中や喉がすうっと冷えていく。半テンポ遅れて、甘い味が口の中に広がった。

「美味しいです」

 僕の言葉に男は嬉しそうに頷いた。

「でしょう? 評判良いんですよ、うちの紅茶。自慢じゃありませんが、リピーターも多いんです」

「へえ」

 なるほど、飲み込んだ後も口の中に残る独特の甘みは、一口二口と飲んでいるうちにやみつきになってしまいそうだ。

「このお店、けっこう昔からやってるんですか?」

「昔からと言えば昔からですし、最近始めたといえばそうとも言えますね」

「僕、よくこの住宅街を通るんですけど、喫茶店があるなんて知りませんでした」

「そうですか。それはそれは。見つけていただき光栄です」

 そう言う男の顔は、なにか企んでいる悪戯っ子の笑顔を思わせた。

 会計のとき、男がレジカウンターの下から小さなカードとスタンプを取り出した。

「スタンプ、あたしが捺すー!」

 女の子はスタンプを受け取ると、それをカードにぐい、ぐい、と力強く押し付けた。

「あと、九個だね!」

 どうやら、スタンプを十個集めるとカードはいっぱいになるようだった。十個集めたら、なにかしらの粗品でも貰えるのだろうか?

「それじゃ、また来ます」

「ええ。ありがとうございます」

 僕は店を辞すると、バイト先へ向かった。

 心なしか足が軽く感じられたのは、紅茶のおかげ……だったりするのだろうか。

 

***

 

 夜。

 バイトを終えて家に帰ると、母はリビングでテレビを観ていた。

 湯呑片手に、何を熱心に観ているのかと思えば、民放のニュース番組である。

〈人気女優謎の失踪〉

 ゴシップ記事のようなテロップが、画面の右上に表示されている。

「女優の小暮七穂子さんが二か月前から行方不明になっていることが、所属事務所によって明らかになりました」

 画面に女性の顔写真が映し出される。赤みがかったロングヘアの、典型的な美人顔の女性だった。口角をあげ、にっこりこちらに微笑みかけている。芸能人には疎い僕でも、彼女の名前くらいは知っている。サークルの先輩が、彼女の大ファンだったはずだ。

 その顔写真の下に出た「女優 小暮七穂子さん(47)」という文字を見て、僕は少なからず驚いた。画面に出ている彼女の顔写真は、二十代にしか見えなかったからだ。

 昔の写真を使ったのかと思ったら、ついこの間アーティスト写真用に撮影されたばかりのものらしい。

「小暮さんは『三百六十五回目のプロポーズ』や『彼はいつも振り返れば』などのドラマでヒロイン役を務め、〈こぐなほ〉の愛称で親しまれていました。所属事務所の話によると、小暮さんは現在一人暮らしで二か月前から連絡が取れない状態が続いて……」

 プツン、と途中で画面が切り替わった。母がリモコンでチャンネルを変えたのだ。

 突然鳴り響き始めたアップテンポのメロディに、思わず身を仰け反らせてしまう。テレビの中では一人の男がマイク片手に熱唱している。

「あー、セーフ、セーフ」

 ほっとした表情で湯呑をテーブルに置く母。どうやら、この歌番組を観るために、テレビの前でスタンバイしていたらしい。

「誰か、好きな歌手でも出るの?」

「この人よ、この人」

 母はテレビで熱唱中の男性歌手を指さした。

「まーちゃん。如月真人くん。可愛いわよねえ、ホント」

 黒目勝ちで丸顔の如月氏は、確かに〈可愛い〉という形容がよく似合った。毛先のカールしたやや長めの黒髪が、余計に彼の女性的な部分を強調しているのかもしれない。

「色白で、ホントお人形さんみたい」

 ほお、とため息を吐く母。

 テレビの中で歌い続ける彼の姿を見ながら、僕はなんとなく、あの喫茶店の男を思い出していた。

 

***

 

その三日後。

僕はまた、〈Café puppe〉の紅茶を啜っていた。

リピーターになるつもりはさらさらなかったのに、バイトに行く途中に前を通ったら、無性に飲みたくなってしまった。じわりと口の中に広がる、あの甘い味が思い出されて、出来ることならすぐさま、店に飛び込んで注文したいと思ったくらいだ。

しかし、実際にはバイトに遅刻するかしないかの瀬戸際で、必死に走っている最中だったのであきらめざるをえなかった。

そして、バイト終了後。

僕は〈Café Puppe〉の紅茶の甘ったるさを味わっていた。

僕の他に客はいなかった。店内にいたのはたった一人、先日、やれ人形が欲しいだの、スタンプを捺させろなどと騒がしかったあの女の子だけだった。

その彼女も、今日はどうしたことか、客席のテーブルに突っ伏して眠っている。彼女は今日も、真っ赤なワンピースを身に着けていた。

鈴の音で気づいたのだろう、男はすぐに厨房の方から姿を現した。今日も、前回と全く同じ格好をしている。このギラギラと眩しいベストは、制服のようなものらしい。

「やあ、いらっしゃいませ」

 男はそこでフウ、と息を吐くと額の汗を拭った。

「あのう、もしかしてなにか、取り込み中でしたか?」

「いいえ。あの子の人形を片付けてきたところだったんです」

 男はあの子、のところでテーブルに突っ伏して眠っている女の子を顎でしゃくった。

「人形?」

「ええ。あの子、人形で遊ぶのが好きなんですがね、自分の部屋でおとなしく遊んでくれれば良いものの、すぐに店のほうに降りてくるから困っちゃいますよ。人形遊びは自分の部屋でしなさいって、何度言っても聞かないんですよ、お店屋さんごっこしたいとか言って」

「可愛いじゃありませんか」

「商売の邪魔なんですよ。せめて、閉店時間まで待ってって言っても、ちっとも言うことを訊かないし」

「そんなものですよ、子どもなんて」

 進学塾に通って、県内トップの成績を収めている子だって、廊下を走ったり提出プリントの片隅にくだらない落書きをしたりするのだ。まだ、小学校にもあがっていないような年齢の子どもなんて、どれだけ言って聞かせたところで自由奔放に動き回ろうとするだろう。

「さっきも勝手に人形を持ってきていてね。まったく、開店前の下準備なんかをしていたら、あの子が降りてきていたことに気づかなかったんです。てっきり、部屋でおとなしく遊んでいると思っていたんですよ。ふいっと、厨房からこちら側に来てみて、もうびっくり。あの子、人形をほっぽりだして、ああやってぐうぐう寝ているんですからね。しかも、人形の髪を切って遊んでいたみたいで、片づけるのに手間取っちゃって」

「ええ? 人形の髪を、切ったんですか?」

「はい。最近、美容師に興味が湧いたらしくてね、よく人形の髪の毛を切って遊んでいるんです。すぐ飽きると思って、ほうっておいたんですけど、まさかこんなところでやるなんて、思いもしませんでした。びっくりしてやっと片づけたと思ったら、本人は呑気に居眠りなんかしちゃって、まったく」

 片づけがよほど大変だったのだろう。男はハア、と大きく息を吐いた。

「ああ、すみません。お客様に愚痴なんて言うものじゃありませんね」

「いいえ。子どもの相手って、大変ですよね」

 脳裏に学習塾に通う子どもたちの顔が浮かぶ。どこまでも自由奔放な子どももいれば、ほとんど俯いたままで必要最低限の言葉しか喋らない子どももいる。どちらにせよ、子どもというのは扱いにくい。

 彼らを見ていると、十年前、自分も子どもだったという事実や、今の子どもたちも十年もすれば大人になるということが、だんだんと信じられなくなって来る。自分は何年も前から大学生だったような、子どもたちはいつまでたっても永遠に子どもでいそうな、そんな錯覚にも似た感覚に陥ることが度々あった。

「ええ……まあ、お座りください。お水、今、持ってきますね」

「はい」

 相変わらず眠りこけている女の子の横を通った時、ふと、その手に何かが握られていることに気づいた。

 黒色の――しかし、光の当たり具合によっては赤みがかって見える、糸のようなものの束。

 そういえば、さっきまで散髪屋の真似事をして遊んでいたと言っていたっけ。そのときの、人形の髪の毛なのかもしれない。

 その時の僕は、それ以上深く考えることなく、さっさと席についてしまった。

 結局、女の子は僕が紅茶を飲み終えて帰るまでの間、ずっと小さな寝息をたて続けていた。

 

***

 

「紅茶と、あと、ハムサンドお願いします」

「はい」

「すっかり、常連さん、だね!」

 男の足元で女の子がぴょんぴょん、と飛び跳ねた。「こら、ばたばたしない」と注意されても、聞く耳を持たない。五歳や六歳の子どもなんて、そんなものだ。彼女はきゃっきゃと笑いながら、厨房の方へ駆けて行った。

 女の子の言う通り、僕は一か月と経たないうちに喫茶店の常連客となりつつあった。もう、今日で八回目の来店になる。

 始めて来た時から、この店の紅茶の味が忘れられず、バイトのたびについつい立ち寄るようになってしまった。

「僕もすっかり、リピーターになっちゃって。美味しいですね、ここの紅茶」

「ふふふ、ありがとうございます」

「淹れ方とかはやっぱり、企業秘密ってやつなんですか?」

「企業秘密、かぁ。ハハハ、ククク……」

 男は可笑しそうに相好を崩した。顔全体をくしゃりと潰したような彼の笑い方は、どこか子どものよう、いや、小動物のようで見る者を癒す効果がありそうだった。黙って真面目な顔をしていると、顔が端正なぶん冷徹に見えるものだから、そこからの落差で安心するだけなのかもしれないが。そうだ、彼の顔の作りは端正すぎて、美しく出来上がりすぎていて、わざとらしかった。〈人形のよう〉という例えが、彼にはぴったりと当てはまる。

「淹れ方は普通ですよ。特別なことはしちゃいません。企業秘密でもなんでもない。トップシークレットなのは、茶葉のほうですよ。ククク……」

「僕、茶葉は詳しくないんですけど……ダージリンとかカモミールとか、そういうやつのことですか?」

「ええ、ええ。うちの茶葉は、僕オリジナルですからね。世界中探したって、僕の手元にしかないんです。ククク」

「茶葉から自分で育てているんですか?」

 それに対する返事はなかった。都合の悪い質問を無視したのではなく、新しくお客がやってきたからだ。

 ニューヨークヤンキースのロゴ入りキャップ帽に、色の濃いサングラス。派手な柄の黒いシャツに、ダメージジーンズ、スニーカーという、やや不審者じみた恰好の男だった。

 客は帽子を脱ぎ、続いてサングラスを取ろうとしてピタリと手を止めた。顔が真っ直ぐ、僕の方を向いている。

「俺の他に客がいるなんて珍しいじゃねえか」

「ハハハ。おかげさまで、結構繁盛してるんですよ、これでも」

「記者の類じゃねえだろうな?」

「まさか。学生さんらしいですよ」

 客の男はずいぶん、僕の事を警戒しているようだった。

 そういえば、彼のやや特徴のある声と、くるんと毛先がカールした黒髪には見覚えがある。どこかで会ったことがあっただろうか。

「いつものやつ、頼むよ。食事はいらない。このあとすぐ、レコーディングがあるから、ちょっと急がなくちゃいけないんだよね」

 そう言うと客の男は、入口に近い席にどっかと腰をおろした。

 レコーディング? ということは、彼は歌手か。……ああ、そうだ。声といい、髪型といい、その色白さといい、この間テレビで歌っていた歌手にそっくりじゃないか、彼は。母の大好きな歌手、〈まーちゃん〉に。母がこの場に居れば、今ごろ大騒ぎになっていただろう。

 そういえば、先日、母に〈Café Puppe〉を、つまり、この店の事を知っているかどうか訊ねたところ、返事は「聞いたこともない」だった。住宅街の中に喫茶店があったこと自体、初耳だったらしい。「今度行ってみる」とは言っていたが、いつになることやら。アンチエイジングには興味津々なくせに、あれで結構出不精なところがあるのでいけない。特に、普段、買い物に利用しているスーパーやショッピングモールは、自宅から見て住宅街とは全く正反対の方角にあるから、ますます足を運ぶ機会が減っているようだった。

 閑話休題

 客の男は運ばれて来た紅茶を美味そうに啜っている。ホットで頼んだらしく、ティーカップからはもうもうと白い湯気が立ち上っていた。

「あち……美味いなあ、やっぱり。週に一回くらいしか来れないの、本当に残念だよ。毎日飲みたいくらいなのに」

「嬉しいこと仰ってくださいますね」

「だってさ、本当、効果抜群なんだもんなあ。ここの紅茶を飲むようになってから、肌の調子も良いしさ、なんていうか若返った気分だ」

「お客様は元から若々しかったじゃありませんか。とてもお綺麗で、美しくて」

「お前、そういう世辞がうまいな。恥ずかしいこと、サラッと言いやがる」

 客の男は口ではぶっきらぼうにそう言いながらも、まんざらでもなさそうだった。

「本当のことですよ」

「へっ、嬉しいこと言ってくれるなあ。こいつを飲んだ後は喉の調子が良いんだよ。なあ、この茶葉、売ってくれないのか? 家でも飲みたいんだけど」

「残念ながら門外不出、当店の隠し財産のようなものでございまして。いわば、箱入り娘、外に出すことは出来ないんですよ」

「隠し財産ってのは、意味が違うだろ」

 断られても、客の男は特に気を悪くした様子はなかった。

「なあ、レコーディングが終わったら、もう一度来てもいいか?」

「え? 構いませんけど、一日に二杯飲まれるというのは、珍しいですね」

「うん。実は明後日からライブツアーで日本全国飛び回ることになるんだよね。そうなると、しばらく来れないからさ。今日のうちにもう一度、飲んでおきたいなと思って」

「なるほど。構いませんよ」

「ありがとう。……あ、会計頼むよ」

 客の男が紅茶を飲み干すと、まるでそのタイミングを狙っていたかのように厨房の奥から女の子が出て来た。あの、赤いワンピースに身を包んだ女の子だ。

 彼女は客のポイントカードにスタンプを捺すと嬉しそうに、

「あと、一個だね!」

「ああ、今日でいっぱいになるよ」

 客の男は女の子の頭を撫でると、僕の方はもう見向きもせずに店を出て行った。

「やあ、すみません。ほったらかしにしちゃって」

 男が申し訳なさそうに頭を掻いた。

「いえ。あのう、今のって、歌手の人ですか?」

「あれ? ご存じでしたか」

「ええと、たぶん。母がファンの〈まーちゃん〉って人かなって……」

「まーちゃんかどうかは知りませんけど、彼は歌手の如月真人さんですよ」

 大当たり。そうだ、〈まーちゃん〉の名前は〈如月真人〉だった。

「芸能人も来るんですね、ここ」

「ええ、たまにはね。それに如月さんのレコーディングスタジオの近所らしいんですよ、うち」

「この近くにレコーディングスタジオなんてあるんですか?」

 そんなもの、果たして近所にあっただろうか。もう十何年、この界隈で生活しているというのに、まったく僕ときたら知らないことだらけらしい。

 僕の反応が可笑しかったのか、男はケタケタ笑いながら首を横に振った。

「違います、違います。うちが如月さんのレコーディングスタジオの近所にあるんです」

「ええと、だから、ということは、この近所にレコーディングスタジオがあるんでしょう?」

「いいえ。あくまで、うちの店がレコーディングスタジオの近所にあるというだけです。店の近所にレコーディングスタジオがあるというわけじゃない」

 僕には、男の言っている意味が全く理解できなかった。

 腕時計を見ると、バイトの時間が差し迫っていた。

「お会計、お願いします」

「はい」

 僕が財布を開かないうちから、女の子は「カード、カード」とスタンプ片手に急かしてくる。

 カードを渡すと、嬉しそうにそれを受け取ってスタンプを捺してくれた。

「あと、二個だね!」

 僕は彼女に「そうだね」と笑顔で頷いてから、男に訊ねた。

「これ、十個貯まったら何か特典でもあるんですか?」

「トクテンってなーに?」

 女の子がぴょん、ぴょんとその場で飛び跳ねる。それに合わせてワンピースの裾も、ふわり、ふわり、と広がった。

 男は「ばたばたしないの」と言いながら女の子を抱き上げると、

「良いものだよ。スタンプが十個になったら、良いものになるんだ。お前も知ってるだろう、スタンプ十個で良いもの、プレゼント」

 だから、その〈良いもの〉とやらが何かが知りたくて質問しているのに。

 その〈良いもの〉の正体を教えてくれたのは女の子だった。彼女は、ぱあっと顔を輝かせると、「わかったー!」と男の腕の中で身体を揺さぶり始めた。

「お人形さんだー!」

「お人形?」

 思わず復唱してしまう。

「あのう、特典って人形なんですか?」

「ええ、まあ、そんなところです」

 紅茶の無料券だろうかと思っていたのに、なかなか意外なものをくれるらしい。

「どんな人形なんですか?」

 あれこれ訊くつもりはなかったのだが、つい好奇心で訊ねてしまう。

 すると、男はきゅう、と目を細めた。口角があがっていなかったら、睨まれていると思ったかもしれない。

「それは、お楽しみ、ですよ」

 一言一言、区切るような言い方は、その言葉の裏に何かを隠しているようで、でもその何かが何なのかさっぱり見当もつかないものだから、少し気味が悪かった。

「ま、もうちょっとですから、またいらしてください」

「はあ」

 なんとなく釈然としないまま、店を出る。

 出る間際、男に言われた、

「あと、二回ですから」

 という言葉がしばらくの間、耳の奥でこだまし続けた。

――あと、二回、ですから――。

 

***

 

 忘れ物に気づいたのは、バイト先についてからだった。

 何の気はなしにジーンズのポケットに手をやって、いつもそこに入れているはずのスマートフォンがないことに気がついた。

 まずい、どこかに落としてきたのだろうかと記憶の糸を手繰り、あの店にたどり着いた。席に座る際、スマートフォンをテーブルの上に置いた覚えがある。あのまま、置きっぱなしにして来てしまったのだ。

 本音を言えば、すぐにでも取りに行きたかったが、まさか業務を放り出して行くわけにもいかない。バイトが終わるのは午後九時。あの店が九時まで営業してくれていたら良いのだけど。

 閉店時間くらい聞いておけばよかった、と後悔せずにはいられなかった。

 

***

 

結局、バイトをあがることができたのは、午後九時半を過ぎてからだった。

今日に限って、提出書類の受付だの、新規入塾の生徒の対応だのに追われて、なかなか解放してもらえなかったのだ。

街灯の少ない住宅街を走り抜け、〈Café Puppe〉へと向かう。

店の前にたどり着いた僕は、そこで肩を落とさずにはいられなかった。

〈Café Puppe〉と書かれた札の下。そこにはいつもの〈Open〉という文字はなく、かわりに〈Close〉という文字がぶら下がっていた。

 閉店してしまったらしい。

 仕方がない。明日、大学に行く前に寄ってみようか。そういえば、開店時間が何時なのかも知らない。明日の朝来て、開いていなかったらどうしよう……朝、ダメだったら、次に取りに来れるのは明日の夕方ということになる。そんなに長時間、スマートフォン無しで大丈夫だろうか、誰かから大切な連絡がきていたら……などと、しばらく店の前で逡巡していると。

 扉の向こうから微かに笑い声が聞こえて来た。きゃっきゃ、という黄色い笑い声。あの赤いワンピースの女の子だ、と思いいたるまでに時間はかからなかった。

 いつだったか、男と交わした会話を思い出す。

――あの子、人形で遊ぶのが好きなんですがね、自分の部屋でおとなしく遊んでくれれば良いものの、すぐに店のほうに降りてくるから困っちゃいますよー―

――せめて、閉店時間まで待ってって言っても、ちっとも言うことを訊かないし――

 そうだ、あの人形が大好きだと女の子が今、閉店した店で思う存分遊んでいる最中なのかもしれない。

 試しに耳を澄ましてみると、女の子の声に混じって、クスクス、という男の笑い声も微かに聞こえて来た。

 いる。まだ店内に、彼らはいる。

 もし、これで閉店の片づけで忙しくしているのであれば、僕も遠慮しただろう。スマートフォンは明日、取りに来ればいいやとその日は諦めて家に帰っていたと思う。

 しかし、実際には彼らはただ、閉店後の店で人形遊びをしているだけのようだった。

なら、忘れ物を取りにちょっとお邪魔したって、悪くはないんじゃないか。そう思ったのが、僕にとっての運命の分かれ道、だったのだろう。

僕はドアノブに手をかけて、そうっと扉を押し開けていた。

「あのう、すみません」

 スマートフォンを忘れてしまったみたいなんですけど、ありませんでしたか。そう続けようとして、僕は声を失ってしまった。

 それは、店内の思いがけない光景のせいだった。

 店内にある椅子すべてに人が座っている。その人たちは互いに会話を楽しむこともなければ、食事をとろうとする気配もない。それどころか、全身の力が抜けてしまったように皆、背もたれにもたれ掛かったり、テーブルに突っ伏したりしている。誰も、ぴくりとも動かない。〈死んでる〉という言葉が脳の奥の方に浮かんで、消えた。

 レジのそばに座っていた男は、店に入って来た僕を不思議そうに見上げてきた。

「おや……閉店したと思ったんですけど、どうなさったんですか?」

「いいえ……あの。忘れ物を取りに来たんですけど、すみません、貸し切りかなにかでしたか……?」

 なんて間抜けな質問だったろう。店を貸し切るのは、いつだって〈生きている人間〉だ。目の前で椅子に座っているのは〈生きている人間〉じゃないと、言葉には出来ない頭のどこかで、わかっていたはずなのに。

 でも、僕はそんな質問をせずにはいられなかった。あまりにも非常識で非現実的な光景を目の当たりにして、それでも自分だけは常識や現実の範囲内にいたいという、本能的な〈逃げ〉の姿勢だったのだと思う。

「かしきり、だよー!」

 座っている人の陰から、女の子がひょっこり顔を出した。

「みーんなで、ご飯、食べてるんだよー。今日はー、新しいおともだち、が来たからパーティ、嬉しいねえ、まーちゃん」

 女の子はそう言って、一番近くに座っていた人の腕を引っ張った。と、その拍子にその人は椅子から転げ落ち、僕の方から顔をはっきりと見ることができた。

 毛先がカールした黒髪、白い肌……見覚えのある顔。

 如月真人、その人だった。

 せめて、目をつむっていてくれれば、居眠りをしていると思い込むこともできただろう。

 しかし、彼の目は両方とも開いていた。見開かれた双眸は虚ろで、何も見えていないのは明らかだった。

 死んでいる……けど、その顔はいつの日か見た、祖母の死体のように青ざめておらず、むしろ頬など桃色に染まっているようにも見えた。

「あーん、まーちゃん、落っこちちゃった。ねー、落っこちちゃったよー」

「ちょっと、待って。あとで拾ってあげるから」

 男は立ち上がると、いったん厨房の方へ姿を消し、数分としないうちに戻って来た。

 その手には、僕のスマートフォンが握られていた。

「これですか、忘れ物というのは?」

「……はい……」

「そうか、閉店したと思ったのに、どうしてと思ったが……あなたのだったんですね、これは。だから、来られたんだ」

「すみません……」

「謝ることなんかありませんよ。ま、明日にしてくれると、都合が良かったんですがね」

 男は口ではそう言っても、なかなかスマートフォンを渡そうとはしてくれなかった。

「しかし、困りましたね。あと二つ、足りないのに、あなたは見てしまった」

「見てしまったって、なにを、ですか」

「なにをって、今、あなたの目の前にあるものですよ。まさか、彼らが普通の生きている人間だとは思わないでしょう」

「死体、ですか……」

 僕の言葉に、男はクツクツ、と喉を鳴らした。その顔には笑みが浮かんでいる。それは、無知な子どもを微笑ましく思う大人のようでも、何も知らないアリスをあざ笑うチェシャ猫のようでもあった。

「そんな、しみったれたものじゃありませんよ。彼らは人形です」

「ぜーんぶ、あたしのお人形なんだよー!」

 女の子の誇らしげな黄色い声が、今はとても場違いに聞こえた。

「あの、まーちゃんって、如月さん、ですよね? 今日、この店に来ていた」

「ええ。よく覚えてらっしゃいますね」

「あれは……あそこにあるのは、如月さんそっくりの人形、ってことですか?」

「いいえ。ご本人ですよ」

 ゴホンニンデスヨ。

 一番聞きたくない台詞だった。

 これ以上、言葉を重ねちゃいけない。なのに、僕の口はするすると質問を重ねてゆく。

「じゃあ、死んでいるんですか? それじゃあ、死体じゃないですか」

「違いますって。死んじゃいませんよ。ま、生きてもいませんが」

 男は僕との会話を面白がっているようだった。

「彼はね、人形になったんです。だから、死んじゃいないし、でも生きてもいない。人形ってことは、言い方は悪いですけどモノ、ですからね。生きる、死ぬとは無関係な存在というわけです」

 人形。床に倒れて動かない如月の姿は、確かに人形のようだった。端正な顔だちに白い肌。彼の髪を、女の子が楽しそうに三つ編みにしているのを見ると、なんだかだんだん、如月真人なんて人間ははなからいなくて、あそこにあるのは元からずっと人形だった〈何か〉のように思えてくる。

 よく見ると如月真人の隣には、これまた見覚えのある顔の女性が座っていた。

 美しいその顔には、如月同様に感情のようなものは欠片も見当たらない。髪型は、毛先が不ぞろいで不格好なおかっぱだった。

 髪型こそ違えど、その顔は女優の小暮七穂子に間違いなかった。髪の毛は恐らく、あの女の子に切られたのだろう。いつだったかに、散髪屋ごっこをしていたと言っていたから。

「もののついでだ。どうせ、あなたはもう、うちにはこないでしょうから、教えてあげましょう。私もね、たまには誰かに話したいと思っていたんですよ。気味悪がられて、客足が遠のくと嫌だから、ごまかしごまかし、きましたけど。秘密ってのは、やっぱり話したくなる」

 今夜の男はとても饒舌だった。僕のスマートフォンを手で弄びながら、話し続ける。

「ここにある、いや、いる人形は皆、うちの常連さんでした。うちの紅茶を気に入ってリピーターになってくれたんですよ。皆、口をそろえて紅茶を飲んでから、若返った、と言ってくれました。ま、そういう紅茶ですから、当然なんですけど。彼らはうちに来て紅茶を飲んでは、カードにスタンプを一つ捺されて帰っていった。あなたと同じです。十個、スタンプが貯まった彼らは見事、特典を手に入れたってわけだ。……人形となり、生きることからも死ぬことからも解放され、ずっと綺麗なままでいられる、という特典をね」

「あ、あのう、スマートフォン、そろそろ返してもらえますか……」

「おっと、あと少しだけ。うちの紅茶はね、そういう紅茶なんですよ、要は。最近はやりの、皆さん大好きな〈永遠の美しさ〉を確実なものにする。若々しさ、と言い換えてもいいかな。齢をとりたくないと、よく言うでしょう。そんなニーズにぴったり」

「僕、もう帰らないと……」

「ねえ、あなたは興味ないんですか。生死からの解放、永遠に今のままの自分、時の流れから取り残されるということ。あと、二杯ですよ、あなた。十杯で効果が表れるんです、はっきりとした結果がね。ねえ、あと二杯、飲みませんか」

「帰ります、帰らせて、帰らせてください!」

 喉が痛かった。

 男はちょっと肩を竦めると、スマートフォンを僕の方に差し出した。

「残念ですね。あなた、なかなか綺麗な顔だったのに」

 僕は彼の言葉にこたえる余裕もなく、差し出されたものをひったくると、あとは無我夢中で店を飛び出した。

「ばいばーい」

 女の子の無邪気な黄色い声すらも、僕には恐ろしかった。

 そのあとのことはよく覚えていない。

 家に駆け戻って、自室のベッドに飛び込んで。気づいたら、朝を迎えていた。

 すべて、夢の中での出来事だったのかもしれない。

 確かに財布に入れたはずの〈Café Puppe〉のポイントカードは、どこにも見当たらなかった。

 あの店のあった住宅街へは足を運ばなくなってしまった。バイト先へは、少々遠回りになるけれど、住宅街に足を踏み入れなくて済む道を通るようになった。

〈Café Puppe〉なんて、はじめからなかったのかもしれない。あったとしても、それはきっと、ただの紅茶が自慢の個人経営の喫茶店にすぎない。

 

 夢か現か定かでない経験をしたのは、過去にも未来にもそれ一回切りだった。

 如月真人が行方不明になったというニュースを聞いたのは、それから一か月後のことである。

 小暮七穂子が見つかったというニュースも、今のところ耳にした覚えはない。