読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

高慢と陰険

創作の思い出

たまには完結しているものも。

某団体の冊子に掲載してもらったものですが、配布期間も終了したし、ネットに掲載される予定もないので、大丈夫でしょう。

 

高慢と陰険

 いらっしゃいませ、と顔をドアのほうへ向けた私は、瞬間、身体じゅうの血液が抜けていくような感覚に襲われた。

 店に入ってきたのはひとりの男。齢のころは三十過ぎ。黒いシャツに黒いネクタイ。黒のスラックス。ファッションとは不釣り合いに思えるニット帽。彼の素性を知らなければ、ヤのつく自由業の人間に見えたかもしれない。

 切れ長の目、筋の通った鼻、薄い唇。美男子だ。私の嫌いなタイプの。

 そのとき、客はひとりもいなかった。店は狭いながらも、テーブル席も用意してあるというのに、彼はカウンター席の真ん中、私の正面を陣取った。

 グラスに入ったお冷とともに、メニューを差し出す。受け取る彼の手には、白い絹の手袋がはめられていた。室内でも外そうとしないなんて、ますますいけ好かない。きっと、自分ではそれが洒落ているとでも思っているのだ。

「ずいぶんシケたところに店を建てたんだな」

 男はメニューをめくりながら、ボソリと呟いた。

「建てたんじゃありません。築三十年の建物を買ったんです。もともと、喫茶店だったので、ここなら簡単に店を始められると思って」

 これが男の求めている答えでないことはわかっている。しかし、ほかに言葉が見つからなかった。

「あっそ。にしたって、辺鄙だね。住宅街の果ての果てだ。しかも、人気のない住宅街。駅からここに来るまで、ひとりもすれ違わなかったぜ。ここの最寄り駅、無人駅だし、よ」

「今、町内会で旅行に行っているんです。そこの、駅前の掲示板にも貼ってあったでしょう」

 もう、三か月も前から企画され、掲示板にも参加者募集の紙が貼り出されていた。

 ここら一帯は、先祖代々、ずっと同じ家に住み続けている家が多い。それにくわえ、住民のうち最も割合の高い世代が六十代以上の高齢者ときている。

 町内会は皆、仲良し、というわけだ。土日祝日の三連休ということもあり、ほとんどの家庭がその旅行に参加したようだった。

 私が参加しなかったのは、単純に気乗りしなかったからである。ここに引っ越してきてまだ日も浅いし、他人とはあまり関わりたくない。

「ふだんは、近所の方が食事をしに来てくれるんですが」

 メインの客層は、家で料理をするのが苦痛になってしまった高齢者だ。配食サービスもいいが、家でひとりで食べるより、店で知り合いと会話を楽しみながら食べたい、という人ばかりである。

「そうかい。そりゃあ、良かった。突然退職した、なんて聞いたからビックリしたぜ。いやあ、良かった。アンタがくいっぱぐれてなくて」

 わざとらしい口調。嘘だ。良かった、なんて、きっと思っていない。

「どうも……」

「なんだ。しおらしいな。昔とは大違いじゃないか。え? まさか、俺が誰だかわからないわけあるまいし。なあ?」

 彼はそういって、メニューをパン、とカウンターに叩きつけた。その双眸は真っ直ぐに、私の顔へ向けられている。

「むしろ、よく覚えてらっしゃいましたね、僕のこと」

「忘れるわけねえだろう。アンタのせいで、俺は仕事を失ったんだから」

 私のせい、か。もとはといえば、自業自得のくせに。反省の素振りも見せない。失ったのが仕事だけで、ありがたく思え。ああ、とことんいけ好かない。いっそ、殺してやりたい。私だって、この男のせいで人生を狂わされたのだから。

 しかし、客は客だ。私はメニューを片づけると、訊いた。

「ご注文は?」

 

***

 

 私は地方の公立大学を卒業後、週刊誌の記者として働いていた。

 最初から、週刊誌の記者を志していたわけではない。あちこちの企業を手あたり次第受けた結果、内定が出たのが偶然、小さな出版社で、最初に配属されたのが偶然、週刊誌の編集部だったというだけだ。

 結果として、週刊誌記者というのは私にとって天職だった。私の中の、それまで抑圧してきた部分、鬱屈としていたなにか、陰険な自分が活き活きと輝き始めた。

 芸能人のスキャンダル。なんだっていい。世間的に〈悪〉といわれるような部分を見つけ出し、適当な証拠を見つけ、記事にする。出来るだけ、意地悪に、読み手の中の〈陰険な自分〉を活気づけるように、工夫を凝らして文章を書く。

 自分の書いた記事の載った号が発売されると、その記事のネタにした芸能人の名前をネットで検索するのが好きだった。それも、発売日にではなく、数日おいてから検索すると、かなりの人数が記事を読んだ後だから面白い。さまざまな感想が飛び交い、祭のようになっている。

 もともとアンチだった人間が嬉々として非難の言葉を連ねていたり、ファンを名乗る人物が「こんな人だとは思っていなかった」と落胆していたり。特に後者を見つけたとき、私は良いことをしたような気持ちになる。

 そうだ、あんたたちが盲信していた相手は、実はこんなに屑だったのだと、だから、応援するのは時間と金の無駄だと気づかせてやれたような気がして、その日は一日気分が良かった。

 今、目の前にいる男についても、私は過去に、記事にしたことがある。もう一年前のことだ。

 男の名は如月(きさらぎ)三日月(みかづき)。ふざけた名前だが、本名らしい。有名な俳優を親に持つ、自称マジシャン。顏が良いのと、親のネームバリューでちやほやされた男。そこがまた、私には気にくわなかった。大した芸も持っていないくせに、生まれたときからそこにある恵まれた環境に胡坐をかいている、嫌な男。

 彼は女好きとして、業界内では知られていた。ファンの間でも「女性からモテる男」くらいには認識されていたらしい。つくづく〈ファン〉とやらを名乗る皆様は、妄信的でアマチャンばかりだと思う。「現代の光源氏みたい。皆から許されちゃう人」などという譫言を見かけたときには、吐き気すら催した。「ファン」とはもともと「狂信者」という意味を表す「ファナティック」という言葉から取られたものだと聞くが、まさにその通りだ。狂っている。

 さて、私は如月三日月を囲う〈ファナティック〉の皆さまの目を覚まさせるべく、一本の記事を書いた。それは、如月が五人の女と同時に付き合い、しかもその一人は金持ちの男相手に金をだまし取る詐欺グループの一員である、という内容のものだった。如月も見事、金を騙し取られていた、というわけだ。

 この記事の載った号は、普段の週の約一・五倍の売り上げを叩きだした。特に、如月の記事に対する反響は大きなものだった。

〈浮気者の上に、詐欺にまで引っかかった間抜けな男〉として、悪評が膨れ上がり、如月に対するイメージは最悪なものとなった。そして、彼はテレビの世界から姿を消した。

 それだけだ。私は、事実を記事に書いただけ。恨まれる理由がどこにあるだろう。どこからどうみても、如月の自業自得ではないか。実際、この記事に関して恨み言をいっているのは、如月本人と彼の〈ファナティック〉たちばかりである。

 如月は今日も恨み言をいいに来たのだろうか。派手好きの如月が、好き好んでこんな片田舎にやって来るとは考えにくい。

 注文されたホットコーヒーを出しても、如月は手をつけようとしなかった。手袋をはめたままの手で頬杖をつき、彼は笑っていた。

「なあ、アンタ、俺が落ちぶれたと思ってるだろう?」

「え? いいえ、別に」

 思っているさ、もちろん。あれだけスポットライトを浴び続けていた生活から一転、テレビにもラジオにも出演しないようになり、ネットでは悪口が連日書き込まれるようになったのだから。〈落ちぶれた〉という言葉がぴったりだ。

「思ってるって、顔に書いてあるぜ」

 如月はクツクツと喉を鳴らした。

「アンタの基準では落ちぶれたかもしれないが、俺の基準じゃ落ちぶれてなんていないんだ、俺は。今日の夜、俺、イタリアにたつんだ。向こうのマジシャンに弟子入りさせてもらう約束が出来てね」

「へえ」

 また、どうせ、親の力を使ったコネクションだろう。落ちぶれても、嫌なやつは嫌なやつだ。

「今日は、その報告に来てくださったんですか? わざわざ?」

「それだけじゃないぜ。ちょっとお喋りしたくなってな、アンタと」

「記事に対する文句ならごめんですよ。今さら取り下げなんて、できませんし」

「ハハ。安心しろ。恨み言をいいに来たわけでもねえよ。アンタの妹についてさ。アンタ、妹がいたんだろう?」

 私はじろりと如月をにらんだ。

「それがどうかしましたか?」

「いるんだろ? いや、いたんだろう?」

「ええ、まあ」

 私には如月の意図がわからなかった。ただ、わざわざ店にやって来てまで、その話を持ち出す彼の悪趣味具合に苛立ちを覚えた。

「もう、いませんけど」

 そういって私は、店の窓辺に目をやる。そこには、ハンドタオルが三枚、並べられていた。妹の遺品だ。

 如月も私につられて窓辺のほうに目を向けた。そして、おや、というふうに目を見開いた。

「あれ、なに? 乾かしてるのか?」

「いいえ。妹の、遺品です。特に愛用していたのを、飾ってるんです」

 私は、遺品、の部分を強調しながらいった。この話題はもうやめろ、という合図にしたつもりだったのだが、如月はそれを読み取らなかったらしい。

「そりゃあ、嬉しいね。あれ、全部、俺のファンクラブのグッズじゃないか」

「えっ」

 思わぬことに、言葉を失ってしまった。

 もう一度、ハンドタオルを見やる。パステルカラーの青、赤、緑。レースで縁取られているファンシーなデザイン。あれが、如月のファンクラブのグッズだって?

 妹は確かに如月のファンだった。〈ファナティック〉だった。私が記事を書いたときだって、どれだけ噛みつかれたことか。こいつは、実の兄の仕事より、他人である如月のほうが大切なのかと絶望したものだ。

 しかし、まさかグッズにまで手を出していたなんて。不覚だった。私は、よりによって如月のグッズを店に飾っていたというのか。

 呆然としている私の様子が可笑しかったのだろう、如月はまたクツクツと喉を鳴らした。

「どうやら、知らなかったみたいだな? ただのハンドタオルだと思ってたのか」

「ええ」

「しかし、嬉しいねえ。ありゃあ、ファンクラブ会員限定グッズだからね。会員へのプレゼントってやつ。アンタの妹さんは、良い人だったんだなあ」

「物好きだっただけです。あの子は、変わり者でしたから」

 そう。妹は変わり者だった。大学は〈映画メディア学部〉とかいう、妙な名前の学部に通っていたし、ファッションも流行には興味がなく、いつでも自己流のコーディネートを楽しんでいた。そのうえ、如月の狂信者だ。それでも、かわいい妹には変わりなかったが。

 晩婚の高齢出産だったため、妹が大学に進学する頃には両親は年金生活を初めてしまっていた。だから、妹の学費はすべて私が出してやっていた。三十代の週刊誌記者の月給。安くはないが、国立大学の学費くらいならなんとか出してやることが出来た。さすがに生活費は、妹自身がアルバイトをして稼いでいたが。

 妹の大学生活は、私の仕事のおかげで成り立っていたようなものなのだ。なのに、彼女は私の仕事を否定した。それも、たったひとつ、気に入らない記事を書いただけで。

 だから、私は如月が憎い。彼は、私の可愛い妹に道を誤らせた張本人なのだから。

「変わり者、なんていうなよ。アンタとは感性が合わなかっただけだろう。俺にとっては、大切なファンだよ」

「自分のファンを悼みにいらっしゃったんですか、今日は? それとも、イタリアに旅立つ前に、ファンひとりひとりの顔を見ておこうとでも?」

「ひとりひとりの顔を見ようと思ったら、何年かかるかわかったものじゃない。違うったら、さっきからいっているだろう、アンタとお喋りするためだって」

「お喋りって具体的にどのような?」

「話の流れから、それくらいわかんないかなあ。アンタの妹さんのことだよ。妹さんを殺した犯人、まだ見つかっていないらしいね」

「……はい。警察は通り魔だろうといっていました。あのころ、ちょうど近辺で通り魔事件が頻発していたので」

 私の妹は、殺された。半年前の夜。人気のない道で。明け方に散歩をしていた人が彼女を見つけたときには、すっかり冷たくなっていたという。その日は十二月の中旬、とても冷えた日だったから、よけいに遺体が冷たくなってしまったのかもしれない。

 死因は失血死。右胸を一突き。心臓を貫かれており、これではひとたまりもない、というようなことを刑事もいっていた。彼女のそばには刺身包丁が転がっており、これが凶器とみて間違いないでしょう、とも。

「ニュースで見たよ。少し珍しい苗字だったからね。アンタのことをつい、連想してしまった。それで、知り合いに聞いてみたら、アンタの妹だっていうじゃないか。びっくりしたよ」

「私じゃなくて、がっかりしましたか?」

「しないよ。どんな屑だって生きる資格はあるって、誰かがいってたし」

 誰もが口にしそうなセリフだ。

「ただ、あの事件で俺も被害を被った。ほら、アンタが俺のことを記事にして、まだ日が浅かっただろう、あの事件があったのって。被害者は週刊誌記者の妹だってことも、早い段階で割れてたしな。勝手に記事を書かれてブチギレした俺が、腹いせにやったんじゃないかって噂が流れたときはゾッとしたよ。女好き呼ばわりされるのと、殺人犯呼ばわりされるのじゃ、まったく違うからな」

「でも、結局、その容疑はすぐに晴れたんでしょう? 警察からは容疑者扱いもされなかったんじゃないんですか?」

「いいや。動機がある人間として、アリバイは聞かれたよ。幸い、そのときは遠く離れた沖縄の友人の家にいたから助かったけど」

 そういえば、記事が世に出回ったあと、彼はしばらくのあいだ姿を消していた。沖縄にいる、という噂も耳にしたことがある。そうか、沖縄に友人なんていたのか。それもアリバイ証言として信用される友人が。……運の良いやつめ。

「事件が起こったのが真夜中で、人通りの少ない場所だったこともあり、捜査は難航。いまだに犯人は見つからず、だろう。どう思う?」

「どう思うって、別に……まあ、仕方がないでしょうね」

「おいおい、実の妹が殺されたってのに、仕方がないはないだろう。それに、アンタが仕事を辞めたきっかけじゃないのか、この事件は。よくもまあ、そんな無頓着でいられるな?」

 私は、なにもいわなかった。この男……如月は、いったいどこまで知っているのだ? そして、いったい、なにが目的だ……?

「いえ、別に無頓着なつもりはありませんけど……。でも、私みたいな素人がジタバタしたところで解決に繋がるとは思えませんし」

「ずいぶん、大人しいじゃねえか。嗅ぎまわって、あの手この手で情報を集めるのはアンタの得意分野だと思ってたんだが。まあ、いい。事件のことは新聞で一通り読んだ。事情聴取のとき、警察からもちょっとばかし、聞くことができたし、ある程度、信ぴょう性のある情報は持ってる。

 アンタの妹さんは夜に、人通りのない道で何者かに刺殺された。右胸を一突き。それ以外にけがはなし。死亡推定時刻は午後七時頃。彼女は学習塾でのアルバイトを終え、友人の家へ向かっていた。……なぜ、友人の家に向かっていたのか、アンタ、知ってるか?」

 こんな男に妹の習慣を教える義理などないので、私は口を噤んでいた。すると、如月はちょっと肩を竦めて、

「週に一回、その友人の家に行って飲み会のようなことをしていたらしいな。宅飲みっていうのか?」

「なんで、知ってるんだ!」

「警察が教えてくれた」

 当時、担当を名乗っていた刑事の顔を思い浮かべ、私は思わず歯ぎしりした。奥歯が嫌な音をたてる。あの青鯖瓢箪野郎め、よりによってこの気障浮気自己愛野郎に情報を流さなくったっていいだろう。職務怠慢だ、警察と民間人の慣れ合いだ、個人情報保護法違反だ……!

「おい、あんまり歯ぎしりすると奥歯と親不知がなくなるぞ」

「……親不知は昔抜いた」

「アンタの歯のことなんて、どうでもいいよ。で、これは割と重要なことなんだが、もし、この事件が通り魔ではなかった場合、容疑者は当然、その日に妹さんが友人の家で宅飲みする予定だったことを知っている人間に絞られる。言い換えれば、彼女の習慣を知っている人物だな」

「なんでいきなり、〈通り魔ではなかった場合〉の話が出て来るんです? 事件が起こった当時、あの周辺では通り魔事件が多発していました。手口も似ていたらしいし、警察も通り魔である可能性が高いって結論付けたんです」

「しかし、アンタの妹さんの事件と、ほかの通り魔事件では微細な部分で差異が見られるんだよ。まず、通り魔事件のターゲットは皆、サラリーマンばかりだった。スーツを着た中年男性が主に狙われていた。アンタの妹さんは、スーツも着ていなかったし、若い女性だ。次に凶器。包丁が使われ、現場残されていた点に関しては同じだが、サラリーマンが狙われたケースに関しては、すべて盗品が使われていた。アンタも知ってるだろう? 通り魔事件が起こる前に、個人経営の料理屋ばかりが狙われた空き巣事件。そのときに盗まれた包丁ばかりが、凶器に使われていた。なのに、アンタの妹さんのときだけ、どこにでも売っているような型の古い包丁が使われた。

 この微妙な違い。犯人の気まぐれといえばそれまでだが、模倣犯である可能性も考えられる」

「じゃあ、なんですか。私の妹は、誰かに恨まれていたっていうんですか?」

「そうだな」

 少しは否定したっていいだろうに。この男は、遺族の気持ちなんて考えたこともないのだろう。

バイト先である学習塾から友人の家までは、歩いて十五分ほど。そのうち、現場となった、あの道を歩くのにかかるのは五分弱。手際の良い犯人だよな」

「待ち伏せでもしていたんでしょう」

「塾から家までのルートは一つじゃないんだぜ。待ち伏せしたところで、妹さんが別ルートから行けばアウトだ」

「じゃあ、あとをつけていた」

「妹さんは、正面から刺されていたうえに、頭を進行方向に向けて倒れていたらしい。犯人は、進行方向から彼女に向かっていった可能性が高い……と考えるのが妥当だ」

「……あの、犯人当てゲームをするために、ここに来たんですか」

 いい加減にしてほしかった。これ以上、如月と会話するくらいなら、同じことを繰り返す近所のお婆さんの相手をする方が数倍マシだ。

 しかし、如月のほうは、この話題を辞めるつもりはさらさらないらしかった。

「ゲームなんて、かわいいものじゃねえよ。俺は、真面目だ」

「……でも、今の条件をプラスしたところで、誰が犯人かなんて絞り込めないでしょう。通り魔の可能性だって、消えたわけじゃない」

「通り魔のことは、この際忘れろ。いいか、犯人の条件はこうだ。

 一つ目、妹さんが毎週、友人の家で宅飲みしていることを知っていた。

 二つ目、妹さんの歩くルートを知っていた。

 三つ目、妹さんが内臓逆位であることを知っていた」

 三つ目の条件に、私は脳をえぐられるような頭痛を覚えた。全身の血液が、一斉に頭にのぼってきたような感覚。

 なぜ……なぜ、こいつがそれを知っている?

「いいか? 妹さんの身体にはたった一つしか、傷は残されていなかった。そして、それが致命傷となった。右胸を一突き。しかも、心臓を正確に貫いている。これは、偶然か? にしては、あまりにも都合が良すぎる。犯人は、正確に心臓がある部分を狙ったんだ。そして、それが実行可能であるためには、彼女の心臓が右部分であることを知っている必要がある。だから、三つ目の条件が必要となってくる。なあ、アンタも知っていただろう、そのことを」

「……ああ、妹は内臓逆位、ってやつでしたよ」

 内臓逆位。書いて文字の通り。内蔵の配置が、常人とは左右真反対の状態。それだけで身体が弱くなることはないが、珍しいといえば珍しいだろう。胃の向きも腸の向きも鏡にうつしたように逆だし、心臓の位置は左ではなく右にある。だから、心臓を刺して殺すためには、右胸を狙う必要があった。

「アンタの妹さんが内臓逆位であることを知っている人間は、この世にどれくらいいるだろうね?」

「さあ……」

「内臓逆位であるだけで、人より体が弱くなることはない。だから、いちいち周囲の人間に自分が内臓逆位であることをしらせ、配慮を求める必要もない。せいぜい、健康診断の時くらいだろう、申告しなくてはならないのは。だけど、健康診断に携わる人間で、アンタの妹さんに恨みを持つような人間がいるとは考えにくい。……なあ、アンタ、なんで俺から目を逸らすんだ。目を見ろよ、目を。まだわからないのか、俺はアンタが犯人だっつってるんだよ!」

「うるさい!」

 耳障りだ、不愉快だ、人の店に来て一番安いコーヒーだけ頼んで、べらべらしゃべって。最悪の客だ! 私は、暴れ出したくて仕方がなかった、如月に殴り掛かって、それから、すべてを壊してやりたかった、如月を、殺してやりたい、今すぐに。

「人を犯人呼ばわりする前に答えろ、なんでお前は俺の妹が内臓逆位だったって知ってるんだよ! また、警察に聞いたのか!」

「そうだよ。心臓を貫いていたって聞いたから、右胸じゃなくて左胸じゃないかっていったら、そう教えてくれた」

「……あのポリ公……! 個人情報を流すなんて、失格だ、訴えてやる……!」

「人の個人情報でメシ食ってたとは思えないセリフだな……」

「うるさい! 死ね! なんでお前は生きてンだよ! 俺の妹はなあ、良い子だったんだよ! 学費出してくれてありがとうって、苦労させてごめんっていいながら、勉強頑張るような、男遊びなんてしない、良い子だったんだ、お前とは違うんだ! なのに、お前みたいなのがいるから、妹は悪い子になっちまったんだ! アンタにとっては、不特定多数のカンタンな商売のつもりだったかもしれねえけど!」

 妹は、良い子、だった。私の仕事を褒め称えはしなかったが、悪く言うこともなかった。そもそも、仕事の話はほとんどしたことがなかった。学費を負担してくれてありがとう、ごめんね、と、それだけだ。仕事でヘトヘトになっている私に、料理を作ってくれもした。小さい頃は、しきりに「お兄ちゃん、大好き」と言ってくれるような、良い子、だったのだ。

 なのに、たかがマジシャンの記事ひとつで、彼女は私を「嫌いだ」と言った。こんな意地の悪い書き方、しなくてもいいじゃない、と。

 挙句、こんな仕事をしているお兄ちゃんはバカだ、などと言い出した。学費も自分で何とかする。もう、関わらないでくれ、と。

 なぜ、あんなことを言われなくちゃいけないんだろう。数日後に「言い過ぎた、ごめんなさい」とメールが来たが、私の気持ちが収まることはなかった。一度出た言葉は取り消せない、とよく言うではないか。そうだ、取り消せない。私を否定した妹はもう、昔の妹とは違う。あの子は、良い子じゃなくなってしまった。

 そう思った途端、私は恐ろしくなった。変わり者ではあるが、いつまでも良い子でいてくれると思った妹が、私のことを否定するような悪い子になってしまった。

 またいつ、同じようなことが起きるかわからない。彼女はもっと〈悪い子〉になってしまうかもしれない。

 それだけは止めないと。もう、起きてしまったことはしかたがない。私にできることは、あの子がこれ以上悪い子にならないようにすることだけ。

 だから、私はあの子を殺した。

 だって、そうだろう。これ以上、悪い状態にならないようにする一番の方法は、時の流れを止めてしまうことだ。時がとまれば、あの子が変化することはもうない。我ながら、理に適っていると思う。……かわいそうでは、あるけれど。

「そんなの、言いがかりだね。それともなにか。妹がよりによって俺のようなダメ人間のファンになるような子だってわかったから、殺したのか? それとも、嫉妬か?」

 嫉妬……? 的外れも良いところだ。やっぱり、如月はバカだ。私は、知らず知らずのうちに笑っていたらしい。くす、くす、という愉快そうな声が自分の喉から出ていることに気づくのに、少し時間がかかった。

 バカで阿呆な如月には、私の笑いが不可解にうつったらしい。当然だとも、わかってたまるものか。奴は怪訝そうに「どうしたんだ」と言った。

「どうもしない」と私。「それよりもコーヒーは、コーヒーは飲まないのか」

 如月の前に置かれたホットコーヒーは、すでに湯気を失っていた。すっかり冷めてしまったことだろう。

 しかし、如月は私の質問に答えようとも、コーヒーに手を付けようともしなかった。

「アンタ、どうして仕事を辞めたんだ?」

「どうして……? できなくなったからだよ」

 妹が死んだあと、私は仕事を休むように言われた。大丈夫だと言っても、編集長は聞かなかった。お前、きっと鬱だぞ、鬱病だぞ、その顔ヤバいぞ、なんて言われたりもした。精神科医でもないくせに、人に向かって鬱病だぞなんて、失礼極まりない。

 しかし、気づけば、私は仕事を辞めていた。周囲に勧められるままに、と言うよりは、周囲に圧力をかけられるようにして。皆、私が妹を亡くしたばっかりに気を落として、元気がないと勘違いしていたらしい。私が元気になれなかったのは、そうではなくて、これ以上妹が悪い子になることはないという安堵からくるものだったのに……まあ、いくら妹を今のまま押しとどめたところで、過去の一番良い子だったあのころには戻れないのだなという、いくらかの悲しみもあったかもしれないが。

 職を追われた私は、辺鄙な田舎に住むことを選んだ。対した意味はない。土地が安かったから。それだけだ。料理も得意だし、喫茶店というのも悪くはない。〈陰険な私〉は再び、心の奥底へ沈むことを強要されたが。

「なあ、アンタ、犯人なんだろう?」

「だったら、なんなんだ。警察に告げ口するつもりか。それも良いだろうね。浮気者で詐欺にも簡単にひっかかっちゃうけど、実はこんな正義感の持ち主でしたって世間へのアピール」

「そんなつもりはない。ただ、ひとつ確かめておきたいことがある。アンタ、俺に罪を着せようとしていたんじゃないか?」

「被害妄想だ、そんなの」

「そうかもな。ただ、警察の俺に対する疑いっぷりが尋常じゃなかった。動機があると聞いている、と言ってな。確かに、動機はあるにはある。アンタがかいた記事がそれだ。でも、アンタは俺以外の人間も記事のダシにしてる。なのに、俺一人がやたらと疑われるのは変だと思ったんだ」

「疑り深いな、それでどうして詐欺にひっかかったんだよ。それともあれか、詐欺に引っかかったから、疑り深くなったのか」

「うるせえ、答えろ」

「警察に『妹さんを殺しそうな人物はいませんか』って言われたから、如月三日月、って答えてやったさ。その理由については、ちょいと大袈裟にな」

 どうせなら、逮捕されれば良かったのに。そうだ、如月さえいなければ、妹は悪い子になんかならなかった。妹の身体を殺したのは私だけど、それ以前に、〈良い子の妹〉を……妹の精神を殺したのは、如月ではないか。そうだ、如月こそ、真の殺人犯だ。

「やっぱり。アンタ、俺に濡れ衣を着せようとしていたんだ」

「水も滴る良い男かよ」

 この、ガワだけ野郎が。

「物理的な濡れ衣じゃない。冗談の言い合いっこしたいわけじゃねえんだよ。……なあ、アンタ、俺がどうしてここへ来たか、わかるか?」

「ハハ……今度は、記憶力テストか? 俺とおしゃべりするためだろう」

「そうだよ。おしゃべりをして、それから、どうしたいんだと思う」

 そう言って彼は待ちきれなくなったように、ズボンのポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。

「俺は、アンタが書いた記事のことはもうどうでもいい。いや、どうでもよくはないな。あれに関しても、根に持ってる。いらないこと書きやがって」

「へえ、それで俺のことを殺すのか。反省しないんだな」

「うるせえ。俺の自由だ」

「自由? じゃ、俺の記事も自由だ、表現の自由だ」

 私はカウンターの陰で、包丁を握りしめた。ナイフより、包丁のほうが、強い。店が汚れるかもしれないけど。

「ただ、それ以上に濡れ衣を着せられるのは、許せねえ。人に、無実の罪を着せる自由なんて、ないだろう?」

「さあ? 世界中探せば、あるかも」

「ふざけんな」

「お前、私を殺しに来たのか」

「そうだよ。アンタには生きる権利がある。けど、俺にはアンタになんらかの形で復讐する権利があるはずだ」

 そんなもの、あるものか。もしあるなら、私だって、コイツに復讐、してやりたい。

「アンタが俺に濡れ衣を着せようとしてるって、ある程度、確信してたから。下見もした。そのときに、駅前の掲示板に旅行の紙が貼ってあるのを見かけてな。アンタみたいな人間は行かないだろうって思って、今日、この店に来てみたんだ」

「ご苦労だな」

「ああ、アンタの店がどこにあるか調べるにも苦労した。あまり、あちこちに聞くと、印象付けてしまって、アンタの死体が見つかったときに、一番に犯人扱いされるからな」

「そんなの、イタリアに行くなら、関係ないだろう」

 如月がやろうとしていることは、計画殺人、と呼べばいいのか。恐らく、帽子をかぶっているのは髪の毛を落とさないようにするため、手袋は指紋を残さないようにするためだろう。水やコーヒーに手を付けないのは、唾液を残さないようにするために違いない。なら、最初から出すんじゃなかった。コーヒー豆を一杯分、無駄にしやがって。

「そうだ。関係ない」

 如月はナイフをポケットにしまった。

「けど、殺さない」

「……どういうことだ」

 殺せばいいじゃないか。私は、殺されようとは思わないけど。

「アンタを殺せば、俺は殺人犯だ。いつ疑われるか、たまったもんじゃない。それに、アンタを殺すと、この先一生、アンタのことを思い出しながら生きていかなくちゃいけない気がしてな。ビクビクしながら生きるのは、性に合わない」

「でも、俺を殺せばスッキリするんじゃないのか」

「そうだな。きっと、気持ちいいだろうな。でも、やっぱり、どんな屑でも生きる権利はある」

 人を屑呼ばわりしているが、自分だってじゅうぶん、屑じゃないか。少なくとも世間では、そう呼ばれている。

「それに……アンタ、今、包丁握ってんだろ。反撃する気、満々じゃねえか。下手すりゃ、こっちも死んじまう。殺さねえから、包丁はなせ」

 私は渋々、包丁から手をはなした。はなしたことを示すため、両手をカウンターの上に置く。

 如月はカウンターの上に千円札を置くと、椅子から立ち上がった。コーヒー代のつもりらしい。

「じゃあな」

 店から出て行くその背中に、釣銭を投げつける。

私は、扉の閉まる音を聞きながら、強く願った。

 死ね。