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またしてもポイ

創作の思い出

りゆう

 

―桜の木の下には、死体が埋まっている。

 

 彼はふと、そんな言葉を思い出した。

 

 この言葉をいったい、自分はどこで聞いたのだろう……本で読んだのだったか、誰かから聞いたのだったか。きっと、遠い過去のことだ。今では一切、思い出すことが出来ない。

 目の前には大きな桜の木。さびれた古寺の片隅で堂々と花びらをまわせているその桜の木は、そこだけまるで別の空間を切り取り、貼り付けたようだった。

 木の下には、オレンジ色のレジャーシート。風で飛ばないようにするためか、四隅にリュックサックやバスケットが置かれている。花見をしようとしていたのだろう。予定通りに進んでいれば、きっと今頃、この桜の木の下ではちょっとした宴が催されていたに違いない。

 しかし、実際に今、桜の木の下でなされていたのは宴ではなく、警察による事件現場の検証だった。背中に〈警視庁〉と書かれた制服を着た者、スーツ姿の者……大勢いる警察関係者の中で、桜の花を見ている者はひとりもいなかった。当たり前だ、彼らは仕事中なのだから。

 彼―三条時峰もまた、その警察関係者のひとりだった。

 満開の桜の木から、地面へと視線を移す。レジャーシートから少し離れたところには、赤黒い水たまり、いや、血だまりが出来ていた。その大きさから、かなりの出血量だったことがうかがえる。

「警部」

 その声が自分に向けられたものだと気づくのに、少し、時間がかかった。今、この現場に〈警部〉と呼ばれる立場にいるのは自分しかいない。

 振り返ると、部下のひとりである若い刑事がいささか緊張した面持ちで立っていた。昨年の四月に警視庁捜査一課に配属されたばかりの、新人刑事だ。警察学校を出てすぐに、捜査一課へやって来たそうだから、本当に〈新人〉ということになる。

「どうした」

「大越直孝が、自首してきたそうです」

 桜の花びらがはらりと、視界を横切った。

 

 事件が起きたのは三月二十三日。春の陽気の中を、冷たい風が吹き抜ける冬の名残を感じさせる日のことだった。

 現場となった古寺、一伝寺は一伝ニュータウンの片隅にある。一伝ニュータウンは町全体が坂になっており、一伝寺はその坂を上りきったところにあるのだ。住職もいない、小さな寺。ニュータウンに住んでいても、その名前を知っている者は少ない。それどこか、寺の存在を知らない者すらいるほどだ。訪れる者もほとんどない、いわゆる破れ寺というやつである。

 この破れ寺で、一人の女性が殺された。被害者の名前は藤戸めぐみ。彼女はつい先日、兎子尾大学を卒業したばかりで四月からは地方の出版社への勤務が決定していた。

 大学では文芸サークルに所属しており、この日はサークルの部員全員でお別れパーティを兼ねた花見をやる予定だった。部員全員で十数人しかいない弱小サークルだったので、たった一本の桜の木の下で、スペース的にはじゅうぶん事足りたのである。部員の内、実際に花見に参加することを表明していたのはたったの七人だった。

 当日は午前十時に一伝寺の前に集合。四年生の藤戸ともう一人の女子生徒が荷物番と場所取りを兼ねてその場に残り、ほかの下級生たちが駅前のコンビニエンスストアへ買い出しに出かけた。また、藤戸ともう一人の四年生(大森由紀子というのが彼女の名前だった)がその場に残ったのにはもう一つ理由があって、集合時間になっても姿を現さなかった者がいたためだった。

 それが大越直孝。本事件の容疑者と目されている人物である。彼もまた、藤戸めぐみと同じ大学に通い、文芸サークルに所属していた四年生だった。

 彼が一伝寺に姿を現したのは、午前十時半過ぎ。そのとき藤戸と大森は、桜の木の下で談笑していた。

 先に大越に気が付いたのは、藤戸だった。藤戸は大越に気づくと、立ち上がってレジャーシートから数歩離れたところで、「こっち、こっち」と呼びかけたという。大越は藤戸に呼びかけられると、無言で彼女の方へ歩み寄った。と、同時に肩に下げていたトートバッグから果物ナイフを取り出し、それを藤戸の胸部に突き刺した。そしてナイフを引き抜くやいなや、そのまま逃走。血まみれのナイフを片手に逃げる彼の姿を、複数の人間が目撃している。そのため、警察はかなり早い段階から大越直孝を最重要容疑者として捜査を進めていた。

 犯行現場の唯一の目撃者である大森は、最初は何が起こったのかわからなかったという。ただ、大越がバッグからナイフを取り出したのが見えて、頭の中が真っ白になってしまった、と。

 彼女が動き出せたのは、大越直孝が寺の敷地内から姿を消した後だった。

 その場に蹲ってしまった藤戸のそばに駆け寄り、持っていたスマートフォンで一一九番通報。そのあとはただ、自分の来ていたパーカーで藤戸の傷をおさえ、出血を止めようと努力することしかできなかった。

 しかし、大森の努力が実ることもなく、救急隊が一伝寺に到着したころには藤戸は心肺停止状態に陥っていた。

 その後駆け付けた警察が大森から事情を聴き、殺人事件として捜査を開始したのが、たったの三十分前のこと。

「早すぎやしないか」

 それが、三条がとっさに思いついた感想だった。

「そんなこと言われましてもね」

 部下は困ったように、頬をかいて、

「向こうが勝手に自首してきたんですから、どうしようもないじゃないですか」

「自首って、どこへ」

「警視庁だそうです」

 ちょうど、入れ替わりだったということか。ちっとも笑えない冗談だ。

「大越直孝は、なんと言って自首してきたんだ」

「詳しいことはわかりませんが、自分が藤戸を殺した、という趣旨の事を口にしているそうです。凶器もバッグから見つかりましたし、衣服にも被害者のものらしい血がついていたそうなので、まあ、間違いないでしょうね」

 そこで部下は一仕事終えた、とばかりに、ほう、とため息をついた。彼がさきほどまで緊張していたのは、殺人事件の犯人が自首してきたという事実ではなく、上司である三条に報告をしなければならないという重荷からだったのかもしれない。

「しかし、こう言っちゃなんだが、ずいぶん潔いんだな。つかまりたくないから、被害者を刺した後、逃げだしたんだろうに、もう自首してきたか」

「大方、たいした計画も立てずに犯行に及んで、やっちゃったあとで自分の無計画っぷりに気が付いたんでしょうよ。どうすれば良いか、わからなくなって自首してきたんじゃないでしょうか」

 部下はたいして興味がないらしく、

「それで、どうします? 戻りますか? マスコミにも発表しなくちゃならないでしょうから、報告は早い方が良いと思うんですけど」

「ン……それもそうだな」

 三条は一つ頷くと、部下とともに一伝寺をあとにした。彼らを呼び止めるかのように、桜の花びらがふわり、ふわりと目の前を舞い降り続けていた。

 

 太陽が山の向こうへ沈もうとしていた。

 窓の外の様子を見て、まるで朱色の海に沈んでしまったようだ、などと惨状は思う。それも何かの本で読んだ表現だったはずだが……何だっただろうか。

 それから彼は取調室の電気を点けた。なんどか点滅したあと、人工的な白い光を放つ蛍光灯。記録係の警官が、礼を言うように軽く頭を下げた。

 蛍光灯の真下には、一人の青年。視線を下に落としたまま、いっこうに三条のことを見ようとしない。それは刑事という存在への恐怖心や、自分の犯した罪に対する申し訳なさからというより、ただ三条の存在に興味がないだけのようだった。

「大越くん」

 三条はなるべく感情をこめず、目の前の青年に呼びかける。そこで大越青年はやっと、顔をあげた。大柄な分、それだけの動作でも、とても大儀そうに見えた。口を一文字に結び、一重瞼の細い眼を気怠そうに三条のほうへ向けている。

「きみの着ていた服に、藤戸さんの血液が付着していたよ」

「見ればわかるでしょう、それくらい」

「血が付いているのは見ればわかるが、あれが藤戸さんのかどうかは、見ただけじゃわからないからね」

「僕が藤戸さんを刺したんですから、当然でしょう。逆に言えば、僕は藤戸さんしか刺していないんだから、藤戸さん以外の人間の血がつくことなんて、ありえない」

「認めるんだね、藤戸さんを殺したことについて」

〈殺した〉と言った瞬間、大越は微かに身を震わせた。しかし、声は相変わらず単調で、

「だから、そう言っているでしょう、最初から。そんなことより」

 そのとき、大越の目が一瞬きらりと光ったのは単なる光の加減の問題だったかもしれない。

「この事件、僕の名前って全国報道されますか?」

「……は?」

 思わぬ言葉に、つい間の抜けた返事をしてしまう。

「僕の名前、全国報道されますか? ニュースとか、新聞とか」

「……まあ、されるだろうね。きみはもう成人しているから、名を伏せる必要もない」

「そう。顔写真なんかも?」

「されるかもしれない。嫌なのかい?」

「別に。嫌じゃないです」

 口調は淡々としていて、そこから感情を読み取ることはできなかった。

「藤戸さんのこと、どうして殺したんだい」

「どうして?」

 三条の質問の意図がわからない、というように大越は首を傾げてみせる。

「どうしてって、どういうことですか」

「きみが藤戸さんのことを殺そうと思った理由だよ」

「ああ、ホワイダニットってやつですか」

「ほわい……?」

「ミステリ小説の用語です。〈なぜ、そのようなことをしたのか〉」

 普段、ミステリ小説はおろか、読書にも馴染みのない三条には、あまりピンとこない単語だった。

「そんなの、特にありませんよ」

「なんだって?」

「別に、これといった理由があるわけじゃありませんよ。だから、説明しろと言われても、無理です」

 そこで大越は疲れたように息を吐いた。

「理由なんて、どうでもいいでしょう。僕が藤戸さんを殺した。それは本当なんだから、もういいじゃありませんか」

 そして、もう話したくないというように、また顔を伏せてしまう。三条にはそのしぐさが、目の前でシャッターをぴしゃんと閉められてしまったように感じられた。――本日の営業は、これにて終了です。

 

「……実際問題、本当に大した理由もなく人を殺すというのは、ありうることかな」

 遅すぎる夕飯を摂りながら、三条は同居人に訊ねた。同居人は無精ひげを撫でながら「ふむ」と鼻を鳴らし、

「あるだろ。誰でも良かったって言い分の通り魔とか、大量殺人とかいっぱいあるじゃないか。昔、あったな、ホコテンにトラックで突っ込んだやつ。……そんなの、現役刑事のお前の方が良く知ってるんじゃないか」

「それは、そうだが……いや、お前だってもとは刑事だったろう」

 言ってしまってから、三条はヒクッと喉を鳴らした。それから何かを恐れるように、城ケ崎の顔を見やる。しかし、城ケ崎の方はたいして気にした様子もなく、

「今は中年の無職だけどな」

「無職、はないだろ。主婦の男版、くらいでいいんじゃないのか」

「世間では無職、なんだよなあ、俺は」

 そう言って同居人――城ケ崎誠仁はマグカップに並々と入っていたココアを一気に飲み干した。

「あれか、一伝寺の事件か?」

「どうしてわかった?」

「どうしてって、最近起こった殺人事件でお前が担当してそうなのが、それしか思いつかなかったからだよ。なんだ、そんな意外そうな顔しなくったっていいだろうに」

 三条の表情が可笑しかったのか、城ケ崎はクツクツと喉を鳴らした。

「どんな風に報道されてた?」

「んあ? どんな風って……普通に、一伝寺で女子大生が殺された、被害者の名前は藤戸めぐみ、容疑者は同じ大学の大越直孝。容疑者は一度逃亡したものの、すぐに自首してきた……夜のニュースで言っていたのは、それくらいかな。ま、明日の朝にはもっと大きく扱われるんじゃないか」

「名前、出てたのか? 顔写真は?」

「顔写真はなかった。ま、手に入り次第、だろうな。卒業アルバム辺りから引っ張ってくるんじゃねえの。……珍しいな、お前が報道関連のこと、気にするなんて。何かあったのか」

「いや、大したことじゃない……」

 ただ、取調室での大越の態度が印象に残って、つい訊ねてしまったのだった。どうして彼は、自分の名前や顔写真が報道されるかどうかを気にしていたのだろう? 目立ちたがり? 自己顕示欲を満たすため? 注目されたいがために犯罪に手を出す人間もいると聞く。しかし、大越直孝がその類の人間だとは、三条にはどうしても思えなかった。第一印象だけで決めつけていては、刑事失格なのかもしれないが……。

「あ、骨」

「骨?」

「それそれ。骨、多いから気を付けろ」

 何かと思えば、夕飯の焼き魚のことだった。

「これ、何?」

「鰆。魚偏に春、だな」

 なぜか漢字の解説をする城ケ崎。ご丁寧に空中に書いてみせるが、城ケ崎とちょうど向かい合うようにしている三条の目には、何を書いているのかさっぱりわからなかった。(〈鰆〉という漢字自体は知っていたのだが)

 城ケ崎の用意してくれた夕飯は至ってシンプルなもので、焼き魚に白米、味噌汁に南瓜の煮物と野菜サラダという組み合わせだった。

 それらをペロリとたいらげると、手早く食器を洗う。城ケ崎は「よくまあ、食べてすぐに水仕事できるなあ」と笑うが、三条が洗わなければ城ケ崎が洗うことになる。それが嫌だった。できる限り、城ケ崎には立ち仕事をしてほしくなかったのだ。

 食器を洗い終えて、再び椅子に座る。と、それを待っていたかのように城ケ崎が口を開いた。

「しかし、良かったじゃないか」

「何が?」

「さっさと自首してくれてさ。一度、逃げたんだろう? それなのに、素直に出てきてくれて良かったじゃないか。殺人犯が逃亡中なんて、長引けば長引くほど警察への風当たりが強くなるからな」

 それは確かにそうだろう。しかし、それが疑問点でもあった。いくらなんでも、早すぎやしないか。一時間にも満たない逃亡。それはいったい、何を意味しているのだろう。些細なことかもしれないが、やはり引っかかった。その点についても取調室で訊ねてみたのだが、返答は想像以上に素っ気なく、

「別に、もういっかと思って」

 それ以上は何も聞きだすことが出来なかった。

「ココア、飲むか?」

「ん、ああ」

 考え込んでいたため、返事があいまいになってしまった。城ケ崎はこれを〈イエス〉だととらえたらしく、「よいこらせ」と言いながら立ち上がる。

「いいよ、自分で淹れる」

 そう言ったのだが、「お前が淹れるとマズくなる」と断られてしまった。左足を引きずるようにしながらキッチンへ向かう城ケ崎の姿を見て、三条は思わず顔を伏せてしまった。

 きっと、俺は嫌な奴だ。

 

 翌日。

 三条は改めて、大越直孝についての情報を読み直していた。

 二十二歳、兎子尾大学文学部国文学科卒。留年することもなく、きちんと四年で卒業しているところからして、そこそこ真面目な学生だったらしい。留学経験はなし。図書館司書資格取得のための一環として、都内の公共図書館へ一週間の実習を経験。大学卒業後は大手出版社への入社が決まっていた。両親と三人で一伝ニュータウンに居を構えていた。これといった〈特徴〉は見当たらない。

 対する被害者、藤戸めぐみも平凡な、〈平均的な女子大生〉とでも呼ぶべき経歴の持ち主だった。二十二歳、兎子尾大学文学部哲学科卒業。留年もしなければ、留学、実習経験もない。こちらは一伝ニュータウンからは少し離れた場所にある学生向けアパートに一人で住んでいた。卒業後は地方の出版社へ入社予定だった。

 もし、この経歴が逆だったなら。自分より良い企業へ採用された藤戸への嫉妬、という動機も考えられる。しかし、実際には大越の方が良い企業に採用されている。誰もが羨む大手出版社。そこへの就職が決まっていた彼が、就職関連の問題で藤戸に嫉妬するとは考えにくい。

 しかし、それ以外では何も見えてこない。繋がりはせいぜいサークルくらいのもの。同じ大学の同じ学部だったとはいえ、学科が異なると顔を合わせる機会はそう多くはないのではないか。ましてや、兎子尾大学は国内でも屈指のマンモス校だ。学部関係での繋がりは、期待しない方が良いだろう。

 経歴だけでは何とも言えない。例えば、大越と藤戸が恋愛関係にあったとしたら? サークルが同じだったのだから、その可能性だって否定できない。お互いの感情のすれ違いから、殺意が芽生えた可能性だってある。または、金銭的なトラブルがあったかもしれない。大越が藤戸から金を借りていた、あるいはその逆――。

 とにかく、サークルだ。今のところ、サークル以外にこの二人の繋がりは見当たらないのだから、そこを当たっていくほかないだろう。

 三条は提出された文芸サークルの名簿を見た。各学年数人ずつしかいない。四年生は三人。藤戸めぐみ、大越直孝、大森由紀子。とりあえず、大森に話を聞くのが妥当だろう。容疑者・被害者と同学年な上、犯行当時、現場にいた唯一の証人でもある。

 今の時期、四月からの生活に向けて忙しいかしらん――そんなことを考えながら、三条はデスクの上の受話器を取り上げた。

 

「すみません、来ていただいちゃって……私が行くべきですよね、本当は」

 大森由紀子はそう言って、申し訳なさそうに身を縮めた。もともと小柄な体が、ますます小さく見える。

「お気になさらず。こちらこそ、お忙しいところすみません」

 三条がそう礼を言うと、大森はうつむいたまま小さく頭を振って、「大丈夫です、暇なので」というようなことを口の中でもごもごとつぶやいた。大森に話を聞くのはこれで二度目だ。一度目は事件発生直後。この時は、必要最低限のこと――何が起こったのか、程度の事しか訊ねることができなかった。

 三条と大森は兎子尾大学一伝キャンパス近くの喫茶店に来ていた。兎子尾大学には二つのキャンパスがあり、主に文系学部の授業が一伝キャンパス、理系学部の授業が隣の県にあるもう一つのキャンパスで行われていた。

 一伝キャンパスとは、言うまでもなく一伝ニュータウンと隣り合うようにして作られたキャンパスであり、つまり事件現場となった一伝寺とも近所、ということになる。

「ええと、まず当日のことから……皆さんは一伝寺でお花見をする予定だったんですね?」

「ええ」

 答える大森の声はか細かったものの、店内には平日の午前中ということもあって他に客はおらず静かだったため、きちんと聞き取ることができた。たった一人の店員らしい女性は、奥の厨房で食器を洗っていてこちらの会話に注意を向けている様子はない。おかげで、安心して事件の話をすることができた。

「よくご存知でしたね、一伝寺。聞けば、地元の人間でも知らないような寺らしいじゃないですか」

「私も知らなかったんですけど……メグ、藤戸さんがあそこでお花見しようって言い出して」

 藤戸めぐみは〈メグ〉と呼ばれていたらしい。

「藤戸さんは地元の人間じゃありませんよね。なぜ、ご存知だったのでしょう?」

 藤戸めぐみの出身地は山口だった。両親は今でもそこに住んでおり、遺体の確認には兄がやって来た。両親ともショックを受け、とても上京などできそうになかったのだという。

「藤戸さんは散歩が趣味だったみたいで、授業の合間に良く一人で散歩してるって言ってました。その時に見つけたみたいです、あの一伝寺の桜」

「なるほどね……大越さんは一伝ニュータウンにお住まいだったみたいですけど、一伝寺の桜についてはご存じなかったんですかね」

「はい。藤戸さんが一伝寺に桜があるから、そこでお花見しようって言ったら、ああ、そういえばそんな寺、あったっけ、くらいのものでした」

 ひょっとして、人目を避けるために一伝寺という場所を大越が指定したのかと思ったのだが、どうやら的外れだったらしい。だいたい、人目を避けると言ったって大森由紀子という目撃者がいるわけだし、それに逃げてすぐに自首してしまっては何のために人目を避けたのかわからない。

「それで、当日は午前十時に集合した、と。遅刻したのは大越さんだけですか?」

「はい」

「大越さんを待つために、あなたと藤戸さんが一伝寺に残った。そして、ほかの参加者が買い出しに出た。そうですね?」

「そうです」

「そのあとのこと、詳しくお話し願えますか?」

「はい」

 そこで喉を潤すためか、大森は目の前のホットレモンティーを一口すすった。それにならったわけではないが、三条もカフェオレで喉を潤す。カフェオレは氷が溶けたせいでだいぶ味が薄くなっていた。ホットにすれば良かった、と今更後悔してしまう。

「皆が買い出しに行って、藤戸さんと私は大越くんを待ちながら、お花見の準備をすることにしました。そのときに藤戸さんが『忘れてるといけないから』と言って、大越くんにメールをしたんです。見せてもらってませんけど、早くおいで、という内容だったと思います。それに桜の木の下に来ちゃうと、お寺の前の道って見えないんです。だから、そのメールしたんだと思います、ちゃんといるよって伝えるために」

 メールの件は初耳だ。そういえば、被害者のスマートフォンを確認するのを忘れていた。もちろん、捜査員の誰かがチェックはしているだろうが。警視庁に戻ったら、そのメールとやらを確認しておく必要がある。

「メールを送って、二十分ほどで大越くんは来ました」

「二十分? 早いですね」

 言ってから、大越の家は一伝ニュータウンにあることを思い出した。

「大越くんの家、一伝寺から歩いてそれくらいなんです。だから、メールを受けてすぐに家を出たんだと思います。その、メールを受けたとき、家にいたのなら、ですけど」

「ふうん」

 もしかすると、メールなんてはなから読んでいなかった可能性だってある。凶器は大越の家の台所にあった果物ナイフだった。つまり、家を出た時点で殺意はあった、ということだ。ならば、藤戸からのメールを受けて家を出たのではなく、家を出るときに偶然、メールが届いた、と考えたほうがむしろ自然ではないか。集合時間に間に合わなかったのは……何か事情があったのかもしれないし、ただ単に近いからとだらだらしていたら遅くなってしまったのかもしれない。これから人を殺そうというのに〈だらだらしていた〉とは考えにくいが……。

 藤戸が刺される瞬間を、克明に語ってくれるのだろうと期待していたのだが、大森はなぜかそこまで話して口を閉ざしてしまった。

「どうしました?」

 まさか、これで話はおしまい、というわけでもあるまいと思って先を促してみると、目の前の気弱な女子学生はやっと口を開いた。

「あの……警察の皆さんは、その……〈大越くんが藤戸さんを殺した〉と思われているのですよね?」

「ええ。大越さん自身が自供したことですし。あなたも目撃されたのでしょう」

「そう、なんですけど……」

 いったい、どうしたというのだろう。大森は、テーブルの上の紙ナプキンを小さく折りたたんだり、開いたりしながら(そうやって、考えをまとめているようだった)、

「昨日は、その冷静になれなくって……ただ、大越くんが藤戸さんを刺したのは確かだったから、そう言いました。けど……大越くん、藤戸さんを殺すつもりはなかったんじゃないかと思うんです」

 それは動機がない、ということか、と思ったら違った。

「私、結構近くで見ていたんですけど……それで、何も出来なかったのが本当に情けないんですけど……とにかく、近くで見ていて、その光景をあとから思い出してアッと思ったんです。あのとき、藤戸さんは自らナイフに刺されにいったように見えました」

「自ら? ナイフを取り出した大越さんに近づいた、ということですか? ええと、相手がナイフを持っているにも関わらず、朗らかに近づいて行った、と」

「違います、そうじゃないです」

 大森は慌てて頭を振り、否定の意を表した。

「鞄の中に手を突っ込んでいたので、どうしたのかな、とは思ったんですけど。実際に取り出したのは、藤戸さんのすぐそばまで来てからです。そうじゃなくて」

「そうじゃなくて?」

「大越くんはナイフを取り出して、藤戸さんの脚をめがけてナイフを振り下ろしました……いえ、振り下ろしたように見えました」

「脚?」

「ええ。太ももの下のあたりを……そう見えただけなんですけど。その大越くんの腕を藤戸さんが掴んで、無理やり胸に刺したように見えたんです」

 そこで彼女は上目づかいに三条の顔を見ると、そこから何を読み取ったのか、力なく俯いてしまった。

「その、それで、それだけじゃなくって……藤戸さん、不自然に前かがみになっていたんです。まるで、自らナイフを迎えに行くみたいに……でも、そう見えただけ、かもしれません……」

 話すうちに、自分の言葉に自信が持てなくなっているようだった。

 自分の無表情な顔が、ひょっとすると〈出鱈目な妄言を聞かされて不機嫌になっている刑事〉に見えたのかもしれないと思い、三条は出来る限り穏やかな口調で、

「いいえ。貴重なご意見、ありがとうございます」

 そこで彼は話題を切り替えることにした。あまり同じようなことばかり聞くと、大森の神経が参ってしまう。こと、事件当時のことを思い出させるような質問は。

「大越さんと藤戸さんは、普段、どんな関係でした?」

「どんなって……同じサークルで、人数も少なかったので仲は悪くなかったと思います。すごく仲が良いって感じでもありませんでしたけど、大越くんは誰に対してもあまりベタベタしないっていうか。無口で、一人で読書をしてる方が好きなタイプみたいでした」

「大越さんと藤戸さんは学部も同じでしたよね。そっちで何か関わりがあったというようなことは、ご存じありませんか?」

「いえ……私は社会学部なので、まったくわからないんですけど、大越くんと藤戸さんは学部が一緒でも学科が違うので、授業が一緒になるというようなことはほとんどなかったと思います」

 やはりそうか。

「大越さんと藤戸さんの間に、トラブルがあったかどうか、ご存じありませんか?」

 この質問にも、大森は力なく頭を左右に振って、

「わかりません。私の知る範囲ではありませんでした、としか」

「そうですか」

 かろんかろん、という涼やかな音につられて視線を上げると、ちょうど客が入ってきたところだった。店主が「いらっしゃいませえ」と声をかける。その二人組の客は、三条たちのすぐそばの席に座った。これ以上、事件に関する話は聞けそうにない。用意してきた質問は、一通り訊ねたはずだった。

「すみませんでした、お忙しいところ、お時間を取っていただいて」

「いいえ……本当に、忙しくないので大丈夫ですから」

「でも、四月からの生活に向けて、何かと準備しなくちゃいけないんじゃないですか? その、働かれるにしろ、院に進まれるにしろ」

「ああ、あの……いえ、私、そのどちらでもないので……」

「どちらでもない?」

 しかし、大森は四年制大学の四年生だったはずだ。ということは……〈留年〉という二文字が三条の脳裏に思い浮かぶより先に、大森が言葉を続けた。

「引っ越すんです、イギリスに」

「ほお」

 思わぬ言葉に、つい感嘆の声が漏れた。海外へ行ったことのない三条にとっては、イギリスなど異境の地に等しい。

「父が仕事の関係でイギリスに転勤になって……それについていくことにしたんです。向こうの大学に入り直そうと思って。イギリスは新学期が秋ですから、それまではのんびりできますし、引っ越しの準備はとっくに終わっていますし」

 そこで大森はそっと目を伏せた。

「イギリスに引っ越すって言って、一番寂しがってくれたのは藤戸さんでした。行かないでって言ってくれて、内心、ちょっと嬉しかったんです」

 

「きみは藤戸めぐみさんを殺すつもりはなかった。そうだろう?」

 大森由紀子と別れた後。三条は再び取調室で大越直孝と対峙していた。

「突然、どうしたんですか?」

 そう訊ね返す大越の口調は相変わらず単調で、顔にも一切の感情が現れないものだから、こいつポーカーなんかやらせたら案外強いんじゃないかしらん……なんて場違いなことを、三条は思ってしまった。むろん、表には出さない。それにポーカーフェイスなのはお互い様だ。

「藤戸さんの胸部に残された傷口。下から上に向かって、ナイフは突き刺されたようだ。刺した本人であるきみのほうが、それはよくわかっているだろうけど」

 そこで三条は目には見えないナイフを握りしめると、それを下から上に向かって突き上げるような仕草をしてみせた。

「ええ、そんな風に刺しましたね。それが何か?」

「今日、大森由紀子さんに会って、話を聞いてきた。きみと同じサークルに所属していた人だ。そして事件の唯一の目撃者でもある」

「ええ」

「彼女は、きみが藤戸さんに対して〈ナイフを振り下ろした〉と証言した。ならば、ナイフの刺し傷は上から下に向かうように、藤戸さんの身体に残っていないとおかしいじゃないか」

「そんなのわかりませんよ。〈振り下ろした〉なんて、大森さんの見間違いかもしれない」

 ここで「藤戸が自らナイフに刺されに行ったように見えた」という大森の証言を持ち出しても「見間違いでしょう」と一蹴されてしまうだろう。

「では、もう一つ。きみは、昨日、藤戸さんからメールを受けているね」

「ああ、はい。早く来い、みたいな感じのメールでしたね」

「読んでから家を出たのかい」

「はい」

「どうして、集合時間に行かなかったんだい」

「それは……ちょっと、特に理由はないです。集合時間を勘違いしていただけで」

 そうきたか。

「じゃあ、きみは藤戸さんのメールを受けて、慌ててナイフをバッグに入れ、家を飛び出したのか。ずいぶん、慌ただしいじゃないか」

「仕方がないでしょう」

「そうだね」

 肯定されるとは思っていなかったのか、大越は少し意外そうな表情になった。感情らしいものがやっと表に出て来たか。三条は「でも」と言葉を繋げていく。

「〈集合時間を勘違いしていて、メールを受けて大慌てで家を出た〉と言うよりもっと自然なシナリオを思いついたんだ」

 ぱん、と両手を目の前で合わせてみせる。

「きみは集合時間を忘れていたんじゃない。これから人を殺そうって人間が、そんな悠長なこと出来るはずがない。きみ、まさか、家を出る瞬間に藤戸さんを殺す決意をした、なんて言うまいね?」

「……言いませんよ」

 その通り、家を出る瞬間に殺すことを思いつきました、なんて言われたらどうしようかと思っていたので、内心ホッとせずにはいられなかった。そんなことは臆面にも出さない。

「ということは、前々から何らかの理由できみは藤戸さんを殺すつもりでいたわけだ。となると、〈集合時間を勘違いしていた〉というのは納得がいかない」

「そんな悠長なこと、できるわけない、ですか」

 三条は肯定の意味で、一つ頷くと、

「そう。それに、このメールの文面。藤戸さんは集合場所の一伝寺前から、桜の木の下に移動した後、このメールを打った、と大森さんが証言している。となると、このメールの文面はちょっと不親切なんだ」

 そう言って三条は、大越の目の前に藤戸のスマートフォンを取り出した。画面には、件のメール本文が表示されている。送信済みフォルダに残されていたものだ。

〈non title

 みんな買い出しに行っちゃったよ。待ってるから早く来てね!〉

 大越は文面を一瞥しただけで黙ったまま。しかし、その目は三条の言わんとするところを必死に探っているように見えた。

「もし、私が藤戸さんの立場で、来るべき人が来なかったら、どうするか。確かに、こんなふうにメールを送るなり、電話をかけるなりするだろう。しかし、メールを送るにしたって、こんな不親切な文面にはしないね。〈桜の木の下に移動しています〉くらいのことは、書くと思う。ただ〈来い〉と書いただけでは、きみは本来の集合場所で自分たちの事を探すだろうし、桜の木の下からでは集合場所の……一伝寺の前の道の様子を見ることが出来ないから、こちらからきみを見つけることは出来ない。だから、メールにも桜の木の下に来るよう、書くと思うんだ」

「揚げ足取りですよ、そんなの。ついうっかり、書き忘れただけかもしれない」

「揚げ足取りかもしれないが、私は真剣に考えたんだよ。確かに、ただの書き忘れかもしれない。けど、こうも考えられる。藤戸さんは予め、きみが自分たちのいるところへ直接来ることを知っていた。きみが集合時間を忘れているわけじゃないことも、知っていた」

「なら、こんなメールを送る必要、ありませんよね」

「だから、こう私は考えた。きみはメールが来るのを家で待っていたんじゃないか、とね。きみは、藤戸さんからのメールを合図に家を出た。言い換えればきみは、藤戸さんからメールが来ることを知っていたんだ」

「……エスパーじゃあるまいし、どうやってメールがくることを事前知ることが出来るんですか」

「そんなの簡単だ。もっと前の時点で、藤戸さんから聞いていたんだ。メールが届いたら、一伝寺に来るよう言われていたんだろう」

「まあ、納得はできます。けど、そんなことをした理由は?」

 瞬間、大越の目に挑戦的な光が宿った。

「打ち合わせてあったんだよ、事前にね。殺人依頼、だ。きみは藤戸さんから、殺してほしいと頼まれていたんだ。何らかの理由でね。そして、きみはそれを受託した。受託するだけの理由があったんだろう。だが、きみは藤戸さんを実際に殺すつもりはなかった。だから脚を狙った。そして、きみに殺意がないことを瞬間的に悟った藤戸さんは、きみのナイフを自らの胸部に突き立てた。メールは合図。人殺しをするなら、邪魔者は少ない方が良い。だから、後輩たちを買い出しに行かせてから、藤戸さんはきみにメールを送った。〈厄介者はいなくなったよ〉という意味で。どうだろう?」

「どうだろうって、まるでドラマのシナリオの打ち合わせみたいですね」

「でも、これはドラマじゃない。実際にあったことを、推測してみたことだ。憶測の領域を出ていないけどね」

「探偵の出来損ないみたいなことを、されるんですね」

「探偵じゃないからね。けど、出来損ないでも、それが正しいかどうか、答え合わせをすることができる。答えが、目の前にあるんだから」

 三条は真っ直ぐに、目の前の青年を見据えた。

「僕がその答えだって言うんですか」

「ああ。どうだい、私の憶測は正しかったか、それとも間違っていたか」

 三条の問いかけに大越は肩をすくめると、

「正しい、正しくない以前に、刑事さんの憶測は不完全です。藤戸さんが殺されたがった理由も、それをわざわざ僕に頼んだ理由も考えられていない。そんな不完全な解答を提出されたって、判定しかねます」

 痛いところをつかれた。それらの理由については、さっぱり何も思いつかなかったのだ。

「お話はそれだけですか? ほかに何もないのだったら、今日はお終いにしていただけませんか……」

 

 夜。

 三条は城ケ崎と、近所のラーメン屋に来ていた。〈秘伝のスープ〉とやらがウリの豚骨ラーメン専門店。つい先日リニューアルオープンしたばかりで、店内は新メニューを心待ちにしていた常連客で賑わっていた。

「なあ、今日、結田に会ったよ」

 ふと、城ケ崎が思い出したように、そんなことを言い出した。

「ユイタ?」

「ン。中学の時、いたろ。結田直哉。ほら! 卒業アルバムに、画家になるって書いてた。〈世界のユイタ〉になるとか言って、息巻いてたやつだよ」

「ああ、そういや、いたような……」

「今日、買い物に行く途中に会ったんだ。いやービックリビックリ。あいつもオッサンになってたぜ。最初、わかンなかったもん。ま、中学卒業してから会ってないんだから、当然だわな」

「どうやって気づいたんだ?」

「いやー、最初、道を聞かれてさ。一伝寺への行き方だったんだけど。途中まで道が同じだったから、一緒に歩いたんだよ。で、どちらからいらっしゃったんですか、とかご出身はどちらで、なんて話しているうちに『おや』となってね。で、お互い気づいたわけ」

「向こうも驚いてたろ。まさか、こんなオッサンになってるとはって」

 未だにはっきりと思い出せない〈結田直哉〉の輪郭を思い描きながら、軽口を叩く。

「ああ、俺が刑事だったって言ったら、びっくりしてた。んで、お前と一緒に住んでるって言ったら、もうぶったまげてたぜ。いつの間にお前、ヨメイリしてたんだってな」

 その時のことを思い出したのか、城ケ崎は可笑しそうにカラカラと笑った。笑いながら自分の左脚をさすっているのを見て、三条はじくりと胸に痛みが走るのを感じた。

 きっと、脚のことについても何か訊かれただろう。――どうしたんだ、その足。どうして、杖をついてるんだ? 城ケ崎は何と説明したんだろう。

 

 腐れ縁、とでも言うべきなのだろうか。三条と城ケ崎は、中学生のときから警察学校に入るまで、ずっと同じクラスだった。

 刑事として働くようになってからも、同じ班に配属されたときには「運命みたいだなあ」と笑いあっていたものだ。「赤い糸で結ばれていたりして」「キモチワルイこと言うなよ」などと冗談を言い合ったりもした。

 刑事になって、三年目のことだった。

「一緒に寮を出ようぜ」

 そう言い出したのは、城ケ崎の方だった。

「寮暮らしって色々不便じゃん。先輩は正直、鬱陶しいし」

「でも、月給大したことないだろ。どこに住むにしろ、家賃払えるのか? 実家に戻るわけにはいかないだろ」

「そこなんだけどさ。家賃、半分こして、一緒に住まないか」

「半分こ?」

「そ。一人じゃ全部払えなくても、その半分なら何とかなるだろ。なあなあ、そうしようぜ」

 まだ三年目なのに、独身寮を出たりしたら先輩刑事たちから「生意気だ」と睨まれるんじゃないか……そんな心配もないわけではなかった。しかし、その一見わがままな提案に対して、三条は自然とうなずいていた。

「いいよ」

 そうして、あっさりと三条と城ケ崎の共同生活は始まったのだった。

 寮を出て、二人きりの生活を始めたからと言って、劇的に何かが変わるわけではない。大きな変化があったとすれば、鬱陶しい先輩がいなくなって、静かなプライヴェートの空間を手に入れることが出来た、ぐらいのことだろう。

家賃が半分で済むからと言って、高級なマンションに住めるわけでもなく、公務員の安月給だ、築十何年のアパートの二階の部屋を借りての共同生活。玄関の扉は開閉するたびに軋むし、外付けの階段は錆だらけ。しかし、それでも三条は、城ケ崎との共同生活が気に入っていた。特に、城ケ崎の寝顔が好きだった。

その共同生活に不安を覚えるようになったのは、いつ頃からだったろう。

きっかけは、夕食時の城ケ崎の、こんな言葉だった。

「実家から手紙が来てたんだけど、結婚しろ、ってうるさいんだよ、最近」

「結婚?」

「そう。米とか送ってくれるのは、ありがたいんだけどさ。それと一緒に入ってる手紙が鬱陶しいんだなあ。良い相手はいないのか、いないんなら見合いはどうだってね。無茶言うよなあ、こんな安月給で結婚できるかい」

「え、お前、結婚するのか? いつ?」

「お前、今の文脈から何をどう読み取ったんだよ」

 つい、思考が先走ってしまった。

「結婚したら、その……こんなアパートには、住めないよな」

「そりゃ、まあな。それは、お前も一緒だろ」

「いつ、結婚するんだ」

 自制しようと思ってもつい、質問が先走ってしまう。それに対して、城ケ崎は「おいおい」と目を大げさなくらいに見開いて、

「お前まで、俺の親と同じこと言うなっての。未定だよ、ミ、テ、イ」

 ――なら、ずっと未定のままならいいのに……。城ケ崎が結婚すれば、当然彼は妻との新しい生活を始めるだろう。そこに、自分の居場所はない。

 この生活にも、いつか終わりがあるんだ――そう思ったとたん、三条は目には見えない、しかしいつ来てもおかしくないピリオドが恐ろしくてたまらなくなってしまった。城ケ崎の寝顔も、日に日に遠い存在になっていっている気さえした。

 そんな中、あの事件は起きたのだった。

 金目当てで民家に押し入った強盗が、持っていた拳銃で住民を射殺。犯人は弾の込められた拳銃を持ったまま逃走。銃声を聞いた近隣の住民からの通報を受け、三条と城ケ崎が所属していた班も現場へ急行する運びとなった。

 そして、刑事にビビッた犯人が拳銃を闇雲に発砲。大して狙いも定めていなかったくせに、彼の放った銃弾は二発も城ケ崎の左脚に命中した。一つは太ももに、もう一つは左ひざに。

「拳銃って、すげえな」

 病院のベッドの上で、城ケ崎はそんなことを呟いた。まるで他人事のような、呆けた口調だった。「たったの二発で、歩けないってよ」

 退院してすぐ、城ケ崎は警官という仕事を辞めた。上から辞めろと言われたわけでもない。むしろ、当時の上司は「サポートするから」と彼を引き留めようとしたほどだ。それくらい、彼は優秀な刑事だった。しかし、城ケ崎は刑事を辞めた。何を思って辞めたのか、三条には未だにわからない。

「俺、仕事辞めて、実家戻るわ」

 病室でそう告げられた時、三条は咄嗟にこんなことを口走っていた。

「引っ越そうよ」

 そのときの城ケ崎の顔を、三条は一生忘れないだろう。枕の上に乗せた頭をちょっと持ち上げ、怪訝そうに目を細めていた。

「その脚じゃ、二階にのぼるのは無理だろ。一階にある部屋に、引っ越そうよ。あのアパート、ぼろぼろでいつ壊れるか、わかったもんじゃないし。その……貯金も、ちょっとはあるから」

「お前、俺の話、聞いてたか? 俺は刑事辞めて」

 実家に帰るんだよ、と続けようとしていたのだろう。その言葉が聞きたくなくて、三条は声のボリュームを上げた。

「ああ、そのケガじゃ、復帰は難しいもんな。だから、その……退院したら、お前が毎日料理当番ってことで、いいじゃないか。刑事辞めりゃ、暇になるだろ」

 言ってしまってから、城ケ崎は自分の言葉をどう受け止めたのだろう、と怖くなって口を閉ざした。

 いったい、どれくらいの間、互いに沈黙していたのだろう。城ケ崎は、思い出したように口角をあげると、今まで見せたことのない弱弱しい微笑を浮かべながら「わかった」と呟いた。

 それから数日後に、城ケ崎は退院した。隣を歩く城ケ崎が左足を引きずっているのを見て、そして少しバランスを崩すたびに三条の腕に掴まるのを見て、三条は心の底から安心した。これで、もう城ケ崎はどこにもいかない。自分と同じ場所に、ずっと留まってくれる。そんな気がしたから。今まで、自分の事を怖がらせていた〈ピリオド〉も消しゴムで消したみたいに、きれいさっぱり、どこかへいってしまった。

 心の底から、うれしかった。

 そして、自分の事が心の底から嫌になった。

 俺は、城ケ崎がケガをして、後遺症を負って、良かったと思ってるんだ。

 俺はきっと、嫌な奴だ。

 

 翌朝。

 三条にとっては久しぶりの休日だった。昨夜はラーメン屋に寄った後、映画を観に行ったせいで帰宅したのが遅くなったこともあり、目を覚ましてみると正午近かった。隣のベッドは、すでにもぬけの殻だ。布団に触れてみると、まだ温かったので城ケ崎もついさっき、起きたばかりだったのだろう。

 数年前、引っ越してきたばかりのマンション。エレベーターがあるから、と七階の部屋を選んだ。寝室からは、一伝ニュータウンも望むことが出来る。小さなオモチャのようにカラフルな家が、びっしりと並んでいるのが見えた。あの中の一軒が、大越直孝の家なのだろう。

 窓の外から、隣のベッドに視線を移す。掛け布団は丁寧に、二つにたたまれていた。見かけによらず、几帳面なのだ。

 三条は時々不安になる。城ケ崎は、今の自分の境遇をどう思っているのだろう、と。あの時の自分の判断を、どう思っているのだろう。表面上は明るくふるまっているが、その本心はどうなのか、と考えると三条は今でも、怖くて堪らなくなる。

 刑事を辞めなければ良かった、と思っているかもしれない。足が不自由でも続けられる仕事に専念すれば良かった、と。

 ケガを負ったことを後悔しているかもしれない。もっと、犯人から離れていれば良かった、犯人の動きに注意していれば良かった……そうすれば……ケガさえ負わなければ、自分は今でも刑事でいれたはずなのに、と。

 どちらにせよ、あの時、城ケ崎が刑事を辞めなければ、今の共同生活はなかった。

 自分が城ケ崎のケガを、一瞬でも喜んだと知ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。

 いいや、違う。

 自分は今でも、城ケ崎がケガを負ったことを、そのことによって自分のもとから立ち去られずに済んでいることを、心のどこかで幸せに思っている。そのことに気づくたび、三条は不安で堪らなくなる。

 そのことは、絶対に城ケ崎に知られてはならない。

「おっ、起きてたか」

 その声に驚いて顔を向けると、いつの間にか城ケ崎が寝室の入口のところに立っていた。片手にスマートフォンを持っている。もう片方の手で、通話口を覆っているところからして、通話中らしい。

「結田がお前にかわって欲しいって」

「ユイタ?」

 なるべく平静を装って、訊き返す。それまで考えていたことが考えていたことなだけに、罪悪感を禁じえなかった。声が震えていなかっただろうか。

「ほら、昨日言ってた中学の時、一緒だったやつだよ」

「あ、ああ……そいつが、何だって?」

「お前にかわって欲しいんだって、さ」

 城ケ崎も用件は聞いていないのか、それとも教えてもらえなかったのか、困惑したような表情を浮かべていた。仕方がないので、スマートフォンを受け取り、「もしもし」と話しかける。

「三条! 三条か?」

 聞き覚えのない、男にしては少々高すぎる声が、聞こえて来た。

「ああ、結田か?」

 顔を思い出すこともできないまま、相手の名を呼びかける。

 用件が気になるのか、城ケ崎がぐいと顔を近づけて来た。二人そろって、相手の返事に耳を澄ませる。

「う、うん。その、今、大丈夫か? 今、というか、今日って、忙しいか?」

 突然、どうしたというのだろう。相手の意図が全く分からず、二人は顔を見合わせた。その沈黙が結田氏を不安にさせたらしい。まるで言い訳をするような弱弱しい口調で、

「相談したいことがあるんだ」

「相談?」

「うん……その、会って話すよ。今からって、無理かな」

「ああ」

 構わないよ、と言いかけたところで、城ケ崎が髪をくいくいと引っ張って来た。耳元で、

「寝癖が酷い。今すぐは、ム、リ」

 仕方がない。三条は少し、肩をすくめると、

「起きたばかりなんだ。一時間後に一伝駅の改札前で良いか? わかるよな、一伝駅。改札は一個しかないから」

「ああ、ごめん。わかった」

 通話を切る。〈一伝駅から徒歩五分〉がウリのマンションに住んでいて良かった、と思う三条だった。

 

 さて、一時間後。

 寝癖用のスプレーやドライヤーを駆使して、何とか髪の毛を落ち着かせた三条は、何故か城ケ崎と共に一伝駅にやって来ていた。

「結田は俺に相談したがってたようだけど」

 と三条が言うと、城ケ崎は杖をつきつき、

「でも、お前、結田の顔、わかんねえだろ。逆もまた然り」

 ともっともなことを言って、笑った。

「おっ、いたいた。結田!」

 城ケ崎の呼びかけに、一人の男性が振り返った。背の高い――一八〇センチは確実にありそうだった――禿頭の男。モスグリーンのセーターに、まだら模様に色落ちしているジーンズといういでたち。ジーンズの膝や裾に、緑やオレンジ色の汚れが点々とついているのを見て、彼が「画家になる」と息巻いていた、らしい、ということを思い出した。履いているスニーカーも、薄汚れて今にもつま先が破れてしまいそうだ。

「ああ、城ケ崎……と、三条、か?」

 先ほど、電話越しに聞いたのとまったく同じ声で、彼は問いかけて来た。三条はこくんと頷き、

「まあ、その、なんだ。久しぶりだな」

「ああ、久しぶり」

 結田は指先で困ったように、鼻の頭を掻いた。と、そのしぐさを見た途端、三条の脳裏に一人の、丸顔の少年の顔が思い浮かんだ。それまでは、結田氏のことなど欠片も思い出すことが出来なかったのに、まるでパソコンの〈画像フォルダ〉を開いたときのようにパッと、脳裏に画像が思い浮かんだのである。

 それはまぎれもなく、結田少年の顔だった。

 ああ、そういえば、こんなやつがいたじゃないか……一度、体育の授業で一緒にキャッチボールをしたんじゃなかったかしらん……そうだ、美術の先生に気にいられていたっけ……褒められて照れたり、授業中に難しい問題をあてられて困ったりすると、よくこんな風に鼻の頭を掻いていた……。

「相談したいことがあるって言っていたよな?」

 城ケ崎がじれったそうに口を挟んできた。「ま、こんな人の多いところで立ち話もなんだわな。良い喫茶店があるから、そこに行こうや」

 勝手に話を進めていく。それから城ケ崎は腕時計を見て、残念そうに肩をすくめると、ぽつりと一言。

「モーニングは終わっちまったか」

 

 三人が入ったのは、兎子尾大学一伝キャンパス近くの喫茶店。奇しくも、昨日、三条が大森由紀子に会った店と同じ店だった。相変わらず、客はいない。昼時にこんなに空いていて、経営が成り立つのだろうか、と他人事ながら心配になってしまう。

 三条はカルボナーラとミルクティー、城ケ崎はチキンオムライスとカフェオレを注文した。結田が頼んだのはホットコーヒーだけだった。

「お前、腹は空いてないのか?」

 城ケ崎が訊ねても、結田は困ったように目を伏せて「うん……」と頷くだけ。

 それからしばらくは、他愛のない近況報告ばかりが続いた。いつ、店主の女性が注文の品を運んでくるかもわからないのに、うかつに結田の〈相談事〉を聞き出そうとするのは何よりも結田に悪いと考えたからだ。結田自身、店主のの耳を気にしているのか、それとも言い出すタイミングに困っているのか、なかなか〈相談事〉を口にしようとはしなかった。

「でも、お前らが揃って警官になってるとは思わなかったよ。聞いたところじゃ、一緒に住んでるそうじゃないか。ずいぶん、仲が良いんだな」

 どんな顔をすれば良いかわからず、三条はあいまいにほほ笑んだ。一方の城ケ崎はおどけた調子で、

「なんだ、妬いてるのか?」

「ばか言え。男やもめの共同生活に嫉妬なんかするもんか。お前らも結婚してないんだろ?」

「おおっと。よくわかったな」

「わかるよ。結婚してるのに、男二人暮らしなんて、あるもんか」

「公務員ならカタイから、女受けも良いと思ったのになあ。ま、俺は早々にリタイヤしちゃったけど」

「三条はモテそうなのにな」

 そんな結田の言葉に、やはり三条は返答できず、ただ曖昧に微笑を受かべることしかできなかった。居心地が悪い。この話題、はやく終わってくれないだろうか。

「お前らも、ってことは、結田も独身かよ」

「ああ。女じゃなくて絵と結婚する、って親に息巻いてな。結局、女どころか絵とも結婚できず、この体たらくさ」

 そう言って結田が肩を竦めたところで、料理が運ばれてきた。カルボナーラのソースの香りが、ぷん、と鼻を刺激する。

「絵と結婚? 画家になるってことか?」

「そうだよ。でも、結局、プロポーズは受け入れてもらえず。上手くいくと思ったのにな」

「じゃあ、絵はもう描いてないのか? 中学ン時は、美術部で一人、頑張ってたじゃないか。たった一人の美術部で、さ」

「本当はあと、五、六人いたはずなんだけどね。皆、籍だけ置いて部活には全然顔を出さなかった。……十年位前かな。美術部だったやつに会ってさ。部活には三年間で、二回しか来なかったんだけど。なんか医療機器メーカーの部長だって。ちゃんとやってるんだなあ」

 部活には来なかったのに、と結田は自嘲するように笑った。毎日、真面目に部活参加してた俺はコレだぜ。

「絵は描いてるけど、食ってはいけない。売れないからな。たまに、コンクールに出して、それで運が良ければ端金を貰えるって程度だよ」

「ふーん。じゃあ、どうやって生活してるんだ?」